一人だけの世界
◆ ◆ ◆
上を見上げる――。
天井は見えなくて空が見える。
なんとなくきまぐれで屋上に来てみたけど、ついつい寝てしまった。教室と違って、屋上では起こしてくれる教師はいないみたいだ。
立ち上がってみる。暖かい風に挨拶される。う、眠い。もう一度寝ようか教室へ戻ろうか悩……あ、そういえば――。
まだいた。寝る前も見たけど、少女がフェンスの外側に立っている。ここの屋上はだいたい五階に相当する高さなので、落ちたらきっと死ぬだろう。少女もそれを承知でフェンスの外側に立っているはずだ。興味をもったので、彼女を観察してみることにした。
少女は下を――たぶんグラウンドのあたりを――見つめている。寝ていたので時間の感覚はあいまいだけど、結構な時間、あそこに立っているはずだ。それなのに、たぶん僕がいることに気づいていない。春風がときどき少女のスカートを翻すものの、それを気にかける様子がないのが何よりの証拠――になるわけはないけど。
フェンスは少女の背よりもずっと高い。わざわざそれを乗り越えたことになる。足場は普通にしていれば落ちないだけの広さはありそうだけど、遠目からなのでよくわからない。灰色の足場に立つその長い黒髪は、まるでモノクロ写真のようだ。フェンスは緑色だけど。
……よく見ると、あの人はリカって人だ。細い体に艶のある長い黒髪、典型的な美少女で、ちょっと有名な人。雰囲気が独特らしいのだけど、僕は面識がないのでよく知らない。
あんなところにいるとうことは、自殺しようとしているのだろう。飛び降りるか飛び降りないか、気になったので待ってみることにした。
○ ○ ○
下を見上げる――。
視線のはるか先には自転車の駐輪場。そして花壇。
そしてそこは――死の入り口。
ああ――死ってけっこう身近だったんだ。
景色が暗い。果てしなく暗い。黒い電車の音が聞こえる。景色が狭い。果てしなく狭い。赤い花壇しか見えない。
あそこに行けば死ねる。それはとても簡単なこと。空を一歩、歩くだけ。
――でも怖い怖い怖い怖い怖い!足が震えて動けない。心臓が飛び跳ねて痛い。体が心に逆らう。
あそこに行けば、楽になれるのに。私をきっと、救ってくれるのに。生きていたって、しょうがないのに。
踏み出せない……踏み出せないよ……なんで踏み出せないの……おかしいよ……おかしいよ……。
苦しい……苦しいよ……。お願い、吹いて強風!私を死の世界に連れて行って!自分じゃできない!私にはできない!お願い、殺して、誰か殺して、誰か、誰か……誰か…………。
誰か…………。
あぁ……なんだか落ち着いてきちゃった。これじゃもうだめ。今日はもうだめ。こうなったらもうだめ。おとなしく帰ろう……。
………………。
男子生徒が、こちらを見ている。
あれ……?なんだか状況がよくわからない。
不意に、彼は上を指差す。
なんだろう?その先を追ってみる。……空と、フェンスの上端が見える。他には……特に何も見えないみたいだけれど……。よくわからないので、視線を戻すと――男子生徒はくすくす笑っていた。
なっ――そんな子供っぽい……。でもこんなのにひっかかった私も子供っぽいかもしれない。
なんでこの人はこんなところにいて、なんで私をとがめることもなく、なんでこんなイタズラを――?さまざまな疑問が頭に浮かぶ。
そんな当惑する私を気にすることもなく、先に彼が口を開いた――。
◆ ◆ ◆
「今日はいい天気だね」
お決まりの台詞を試しに言ってみた。晴れているといえば晴れているが、ピーカンなわけでもない。
「曇っているけど……」
彼女にとっては曇りらしい。人によって見え方はいろいろということである。空を見上げずに答えたので、あるいは心情的なことを言っているのかもしれない。
「あなた、だれ?」
「リカ」
「それは私の名前」
「ソウスケ」
「ソウスケ、いつからそこにいたの?」
「今きたところだよ」
「本当に?」
「……ほんとは結構前からかな。四時間目あたりから」
「そこで、何してたの?」
「えーと、昼寝してた」
「お昼寝……?」
なんだか尋問が始まった。僕の無駄な嘘によって怪しさ全開である。リカはというと、目を開いて口を閉じて、不思議そうな顔で尋問……ではなく質問をしている。
「なんか、起きたらお腹減ったな……お弁当でも食べよう」
「私、お弁当持ってない」
「じゃ僕のを半分あげるよ。食べられたらもっと食べてもいいけど」
「え、うん…………。それじゃ、少しだけ」
「じゃ、えーと……はいおにぎり。中身は内緒」
と、自然な感じでおにぎりを差し出してみる。うつむき加減なリカは、つられてそのまま手を上げ――ガシャン!フェンスが悲鳴を上げた。またしてもイタズラ成功である。
「……ソウスケってイタズラ好きなんだ」
「リカが綺麗にひっかかってくれるから、ついね」
「ここ危ないから、そっちにいく」
そう言ってリカはフェンスを登り始めた。その仕草はリカに似合わないが、動作は手馴れている。おそらく、何回か乗り越えたことがあるのだろう。途中でカラスが一匹、上をらくらく通り過ぎた。人間にとっては重要な意味をもつこのフェンスも、鳥からすれば何の意味ももたないのだろう。
ほどなくして、リカはフェンスのこちら側――人間の生きる世界へと戻ってきた。
「それじゃ食べよっか」
「うん。いただきます」
こうして、僕とリカのランチタイムが始まった。
○ ○ ○
ソウスケは、不思議な人だった。
私が自殺しようとしていたところを見ていたはずなのに、止めもしない。逃げもしない。それどころか、それについて何も言わない。何も聞かない。それもどころか、一緒にお昼ごはんを食べる始末。
こんなに、悪意のない――無邪気な人は初めて。
ついさっきまで感じていた、あの追い詰められるような気持ちが薄くなっている気がする――。
「ねぇ、ソウスケ」
「ん、なに?」
「どうして、私が自殺しようとしていたことについて、何も聞かないの?」
「……えーと、何か聞いて欲しいとか?」
「そういうわけじゃないけれど……。変わってるなぁって」
「うん、まぁ自覚はあるよ。友達がいないから、そのせいかな」
ソウスケにお友達がいない。それは少し意外。話しやすいし、心も綺麗な感じがするのに。でも言われてみればたしかに、普通の人たちとは上手く付き合えない性格をしているのかも。そしてそれは、私もそう。
「そうなんだ。私も……。私も、お友達がいない」
「へぇ……それは意外だな。リカって有名なのに」
「それはたぶん、私が変わってるから。お友達とかは……いないよ」
「そっか。リカも孤独なんだ」
特に悲しみなどは浮かべないで、ソウスケがそう言う。まるで、孤独が当たり前であるかのように普通の表情。ソウスケには、感情とかがないのかな……。それはある意味、もっとも純粋なのかも。
「ねぇ、私…………ソウスケとお友達になりたい」
言い終わってから、少しドキドキする。自分からこんなことを言うのは、初めてかもしれない。もし断られたら、どうしよう。
「ダメ」
「えっな、なんでなんでなんで?」
「あ、いや……ウソウソ。もちろん、いいよ。ちょっと言ってみただけ」
「なんだ……。びっくりした」
思わず立ち上がってしまっていた。ソウスケが嘘なんてつくものだから、嬉しさよりも、よかったという安堵感でいっぱい。
「じゃ、これからよろしく、リカ」
「うん。こちらこそ。ソウスケ」
こうして私たちは、お友達になった。
◆ ◆ ◆
リカとは途中まで一緒に帰り、お互いの家への分岐点で別れた。次の学校――つまり月曜日に、また同じ時間に同じ場所で会う約束をした。屋上なので、雨が降っていたら傘をさして入るのだろうか。想像するとなんとなく、まぬけが気がする。
それにしても、近くで見るとリカはいっそう綺麗だった。整った顔立ちに、さらさらの黒い髪、透き通るような肌。僕よりも細い体は儚げで、その透明感のある様子はまさに美少女そのものだ。影のあるその独特な雰囲気は、心の純粋さや真剣さの表れであるように映る。
そういえば、なぜ自殺をしようとしていたのか聞かなかった。まぁ聞いたところで僕に解決できるとは思わないけど。
空気は赤に染まり、それをカラスがたたえる。右にも左にも家の塀、信号は欠席している田舎道である。正面は少し暗く、遠慮気味な風が木の葉をさらさらと鳴らす。
あたりに人影はない。ピンポンダッシュのチャンスだ。ためしに鳴らしてみると、……誰も出ない。走る手間がはぶけてラッキーである。
と、そんななことをやっているうちに、自分の家に着いた。玄関のドアは僕の手によって開かれ、主人を招き入れる。彼にはいつも家の警備を任せっきりだ。
中には誰もいない。僕しか住んでいないのだから、当たり前である。さっそく自分の部屋――まぁどこも自分の部屋なのであるが――に入ると、いつも通り静寂のお出迎えがあった。
さて、これからの暇な時間をどうするかがいつもの難題である。長く暮らしているせいで、この部屋には興味を引くものがなにもない。退屈密度がたぶん二百くらいあるのだ。二百というと、休日に降る雨音に匹敵する。もちろん、水溜りは完備である。水溜り一つ一つはそれぞれで世界になっていて、端っこは反対側の端っこにつながっているのだ。つまり、水溜りと風船はどちらも同じく限りがないと言えるかもしれない。しかし風船は閉じており、外側を歩くことが可能だ。それはルール違反であり、真ん中まで戻ってこなければいけない。なぜなら進むにつれて次第に狭くなっていくからで、途中に目印になるようなものはなにもなく、代わりに手紙を読むことができ、その内容に従わない場合は追い出されることはなく、逆に閉じ込められそうになるので、一度通った道をまた通ることは難しくなり、だんだんとあたりは暗くなっていき、夢が後ろから僕を追い……………………。
○ ○ ○
ソウスケとお友達になれたことで、私の心はとても満たされていた。
でも家の前に着いたとたんに、それは逆の気持ちで満たされる。
……今日は、両親が喧嘩をしているパターンの日だ。嫌な気持ちで一瞬、心が壊れそうになる。けれど、なんとかもちこたえる。
このパターンの日は、私に矛先が向きにくい――。上手くいけば平穏に過ごせるかも。でもそれよりも、矛先が私に向いたときが怖い。いつもよりひどくなりがちだから――。
静かにドアを開ける。そしてまた静かに閉める。これはもう、いつもの習慣。静かに靴を脱ぐ。静かに二階にある自分の部屋へと向かう。幸い、気づかれる様子はないみたい。自分の部屋に入る。鍵をかける。これで一安心。
今日ソウスケとお友達になれたことを、さっそく日記に書こう。ベッドにたくさん転がっているぬいぐるみの中から、クジラのエルをひざに乗せて、机に向かう。
「エル、今日は私、お友達ができたよ。ソウスケっていうの。怖くないよ、心の綺麗な人。今度エルにも紹介するね」
今日の日記は、普段の三日分くらいの量になった。エルが家に来たときよりも多い。日記を何回か読み返す――そのたび少しうれしい気持ちになる。
でも、それらは一瞬にして壊される――。
ドタドタと階段を上がる音――。
これは母親が来る音。
私に矛先が向いたんだ――。父親との喧嘩は終わったのかな……それとも継続中なのかな……。
あぁ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……。
もうすぐ来る、もうすぐ、もうすぐ……。
日記とエルを抱きしめて、心を守る準備をしなきゃ――。
ガチャガチャガチャガチャ!
ドアノブをいじる音がした。私の嫌いな音。
自分の心が暗く染まるのが見える――。
ドシン、ドシン!
足でドアを蹴る音が聞こえる。
怖い……怖い怖い怖い!
世界が音に支配される――。
母親から放たれる呪いの言葉――耳をふさいでそれに耐える。
でも心はふさげない。
なおも聞こえるドアを蹴る音。一回一回がゆっくりで重い。憎しみが込められている……。
早く……早く行って……お願いだから……。
エルがいなかったら、きっと私はとっくに壊れていた。
これからは、ソウスケとお友達になれたことで、もっと耐えられるのかな……。
……………………。
……どれくらい時間がたったのかな。いつの間にか、もうとっくに音は止んでいる。
喋っていた内容はよくわからなかったけれど、夕飯がないことは雰囲気でわかった。それですんでよかった。お風呂は、夜中にこっそり入ろう。
日記を先に書いておいて、本当によかった――。
◆ ◆ ◆
土曜日の朝がやってきた。午前の十時。もちろん何の予定もない。
コップ一杯の水が僕の一日を始める。ん……少し苦い。これは不健康な証拠だったかな。逆だったかも。
十時という時間のわりに、僕の家は少し薄暗い。窓の配置とか向きとかのせいだと思うけど、詳しいことはよくわからない。顔を洗いに行くのに、もっとも暗い洗面所へ行かなければならない。暗いのは好きじゃない、苦手だ。
洗面所へ向かう途中、窓の外に奇妙な風を聞いた。
洗面所には、大きな鏡が一枚置いてある。
僕が鏡の前に立つと、鏡の中の僕と向かい合う。
僕が右手を挙げると、鏡の中の僕も右手を上げる。
鏡の中の僕が蛇口をひねると、僕も蛇口をひねる。
鏡の中の僕が顔を洗えば、僕も顔を洗う。
こちらの風景は、鏡の中の風景とほとんど同じだ。たぶん鏡の中の世界と同じくらい、こちらの世界も広いのだろう。
「そっちの世界はどう?」
ためしに僕に話しかけてみた。しかし、同時に僕も、鏡の中の僕に話しかけてしまう。これではキリがない。僕もそう思っているようだ。
鏡の中の僕は顔を洗い終わり、廊下へと引き返す。僕もそれに続いて自分側の廊下へ引き返す。……少し疲れた。やっぱり暗いのは苦手だ。
「外にでも行こう」
そう思ったのは昼のちょうど十二時というところだった。一時間くらい、どうやって暇つぶしをするか考えていたが、ようやく結論が出た、というよりは単に飽きたのだ。
ということで今、僕は神社へと続く石の階段を登っている。別に神社に用事があるわけではないのだが、なんとなく思いついた行き先がここだった。田舎なので選択肢が少ないのだ。
ここの石段は非常に長く、たぶん数百段はあるので、まず誰も来ない。階段はずっとまっすぐで、草木がその両側を囲んでいる。下を見下ろすと、階段の一段目ははるかに遠く、自分の苦労を見ることができる。
……長い長い階段を登りきり、やっとのことで頂上に着く。思ったよりも神社は狭い。高い木々が周りを囲み、太陽の光をさえぎっているので、あたりは暗く、涼しい。
ところどころ欠けた飛び石を渡り、古びた賽銭箱の前に立つ。とりあえず大きな鈴をガランガランと鳴らしてみる。ついでにお賽銭も入れたいところだが、お金を持ってきていないのでそれは叶わない。
正式な作法などは知らないので、てきとうに、一歩下がって手をたたいて目をつぶって礼をする。お金を払ってないけど、一応何か願い事を言っておこう。
「退屈じゃなくなりますように」
○ ○ ○
お休みの日は、嫌い。
親の機嫌が悪くなりやすいから。家にいれば、何をされるかわからない。
なので、こうしてよく神社の石段に来る。ここはとても静かで、私のお気に入りの場所。私だけの、秘密の場所。ここにこうして座っていると、とても落ち着く。気持ちが安らぐ。
上には神社があるけれど、行ったことは一度だけ。とても不気味で、すごく怖い場所。小さい頃に行った記憶が強く残っているせいかも。
だからこうして、石段の途中に座る。いつも同じ、お気に入りのところ。ここは下から数えて四十七段目。
ソウスケは、今頃何をしているのかな――。
こうしていると、この世界に自分一人だけになっちゃったような感じがする。それが不安――でも、それを不安に思ったことは今までなかったのに。ソウスケというお友達ができたからなのかな。一人でいることが不安。
私の不安を映すように、空が曇ってきて、足元が影になってきた。冷たい風が吹く。曇りになっているのはここだけじゃ――ないよね……。
ガサガサ
なんだろう?急に斜め後ろで変な音がした。
不安になりながらも立ち上がって――振り向く。
そこには――何もない。
何もないなんて、おかしい――風とかじゃなくて、故意の音だったと思うのだけれど――。
私の幻聴?幽霊のしわざ?こんな昼間なのに?そう思うと、だんだん怖くなってきた。
でもなかなか、音がした方から目線がはずせない――。
怖いものだったら、どうしよう。
ここにいるのは、よくない――振り向いて、一目散に階段を下りよう。
そう心に決めて、振り向――
「キャアアア!」
目の前にだ、だれか……!
「今日はいい天気だね」
「え……?あ、え……?」
「おはよう、リカ」
「あ……あ、ソウ……スケ……?」
「ん、そのとおり」
「ソウスケ……はぁ……びっくりしたぁ……」
「あはは。ごめん」
ドキドキした。びっくりした。死んじゃうかもと思った。よかった、ソウスケでよかった。本当にびっくりした。心がうるさいくらいドキドキしてる。自分からあんな声が出ると思わなかった。
ちょっとお尻が痛い……私、尻餅をついてたんだ。
「あ、あれ……?」
「どした?もしかしてどこか痛めた?」
「ううん。違くて……力、入らない……上手く立てない……」
全身に力が入らない……。入れようとする思いは空回りして、体がついてこない。どうしても上手く立ち上がれない。
「あれ、そっか。じゃあ、とりあえず治るまで、ここに座ってよう」
「うん、そうする。……ところで、ソウスケ」
「なんだい?」
「どうして、女の子の服着てるの?」
◆ ◆ ◆
僕が女物の服を着ている理由――。
それは特になかった。ただの気まぐれである。ちなみに男物の服を着る日のほうが多い。
僕にはあまり男女の区別というものがなく、服も単に着たいものを着ているだけなのだ。実際、自分が男だとはあまり感じられない。かといって女だとも感じられないが。
というわけで今日はスカートなのだった。
「実は僕は女だからだよ」
ためしに言ってみる。嘘だとばれるだろうか。それともリカはだまされるだろうか。
「うそ、昨日は男子の制服だった」
うーむ、するどい。
「だって名前がソウスケだから、男だよ」
「名推理。さすがだね」
あっという間に降参である。
「でもソウスケ、それすごく似合ってる。そういう服着るのも、うなずけるかも」
「そうかな。リカのほうがずっと綺麗だよ」
実際、誰もが振り返る美少女という感じだ。服が黒いので、肌の白さが余計に際立つ。
「そう、かな……うれしい。ソウスケは、いつもそんな服なの?」
うんと答えたら、この先男物の服が着れなくなりそうだ。
「いや、今日はたまたまだよ」
先ほど少し曇っていた空は晴れてきて、どうやら雨になることはなさそうだ。光は射し、風は止み、鳥は飛び交う。
「足、立てるようになってきた。ほらみて」
「あ、ほんとだ。それじゃ、そろそろ行こうか」
と言っても、特に行く場所もないけど。
「…………嫌、ここがいい。ソウスケ、まだここにいて」
「ん、まぁ僕は構わないけど」
「どこかに行ったりしたら、絶対ダメ」
「…………」
「私、怖いの不安なの。ソウスケが一緒じゃないと嫌。一人でいると心が壊れそう。お願い、ここにいて」
すがるような――真剣な瞳でリカが言う。
リカはやはり、心が弱く感情の強い子だった。それは僕にとって、うらやましいとも思うし、うらやましくないとも思う。
「そっか。わかった、僕でよければ一緒にいるよ」
もともと予定なんてものはないし。それにここの石段は静かで、僕も嫌いじゃない。
そして、リカの様子も気になる。さっきの発言からして、何かに怯えている、あるいは苦しんでいるのではないだろうか。そういえば、昨日も自殺しようとしていたところに会ったんだっけ。
「ソウスケ……私、家族が怖い……」
「家族が?」
「いつも私にひどいことしてくる。世界で一番嫌い。いなくなっちゃえばいい」
自分の足元を見ながら、リカが暗い言葉を吐く。おそらくリカの本心なのだろう。
「ソウスケは、そんなことしないよね」
「もちろんだよ」
リカの状況がなんとなくわかってきた。おそらく家族の誰か、あるいは全員から虐待を受けていて、昨日はそれを苦に自殺を考えていたのだろう。となると、やはり自殺未遂は一回や二回ではなさそうだ。
うーむしかし、家族のいない僕にはあまりわからない話だ。僕は、自分が誰かから生まれてきたのだという感覚すらほとんどない。
「ふふ、ソウスケといると安心する」
そう言って、僕の袖を少し握ってくる。僕なんかが役に立つのなら、いくらでも使ってくれて構わない。
僕の場合はどうなのだろう。僕も、リカがいなくなれば心が壊れたりするのだろうか。うーむ、あまり想像がつかないが、なってみないとわからない。そもそも、壊れるほど心がない気もするけど。
――気がつくと、あたりは暗くなっていた。
リカと話していて、いつの間にか一日が終わってしまった。一人で過ごすよりも、誰かと話して過ごす方が時間は早く駆けていくようだ。
神社の石段という場所のせいもあってか、ほとんど真っ暗で、何も見えない。石段の境界もよく見えず、降りるときは僕らを転ばそうとしてくるだろう。時折、虫の声があたりの暗さをより際立たせる。
お互いの顔も、輪郭程度にしか映らない。しかし言葉だけは、その暗さを無視して相手に届くことができる。
「ソウスケ。私、今日ソウスケとお話できて嬉しかった」
「それはよかった。僕もリカと話せて楽しかったよ」
これは本当、のはず。
「ソウスケ、また明日も……明日もソウスケとお話していい?私、ソウスケと一緒にいたい。ううん、一緒じゃなきゃ嫌。私のお話できる人間は……ソウスケしかいないから」
僕は話せる人間どころか、関わりある人間がリカ一人だ。それはリカと比べて、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。おそらくリカは前者を答えるだろう。
「もちろんいいよ。それなら、また明日ここで会おう」
こうして、密度の高い今日の一日が終わった。
○ ○ ○
そこは地獄だった――。
いつものように入った、夜中のお風呂。
今日は偶然、母親が起きてしまった。
蹴られる扉、消される電気――。でも、お風呂にも鍵がある。
それで、終わったと思った。
思ったのに――。
部屋に戻ると、地獄が用意されていた。
私の大好きなルルステが――
私の大好きだった、ネコのルルステが――!
壊されていた。殺されていた。
首から真っ二つに引き裂かれて、傷口からは綿があふれている。
私が、私が鍵をかけてお風呂なんかに入っていたから!
だから標的がルルステに移って、そして無残に壊された。
ぬいぐるみに抵抗なんてできない。ルルステは首を引きちぎられるその瞬間も、無抵抗に、表情すら変えずに、されるがままに殺されたんだ――。
その純粋な目で、自分の世界が終わる光景を見ながら――。
首と体が離れてしまった今でも、ルルステの表情は私の知っている以前のそれとまったく変わらない。
ルルステは今、その壊れた瞳で何を見ているのだろう。
もし私がお風呂に入らなかったら――!
もし私が素直にお風呂の鍵を開けていたら――!
ルルステは殺されずにすんだんだ。
私のせいで、私のせいでルルステは死んだんだ!
これくらい、少し考えれば簡単に予想できたことなのに!!
私が、自分を守ることばかり考えていたから!
自分のことばかり考えていたから!
あああああああああああああああああああああああああ!!!!!
なんで、なんで私を殺してくれなかったの!
こんなの、こんなの耐えられない!
視界が歪む、光を失う、心が砕ける――
助けて――助けて、ソウスケ――。
こんなの私、耐えられない――あなたがいないと、狂ってしまう、壊れてしまう。
ルルステ……私の大好きなルルステ……。
どんなに涙が零れようとも、ルルステは生き返らない。
ここは童話の世界じゃない。魔法の世界でもない。これが、現実なんだ。
全身の力が抜け、心がうなだれる。
ルルステ……ごめんね……ごめんね。
私もいつかきっと、そっちの世界に行くから――
だからそれまで、待っていてね――。
◆ ◆ ◆
僕は、間違いを犯した――。
と、かっこよさそうに言ってみたが、ようは会う時間を約束し忘れたということである。
おかげで待ちくたびれて、暇をもてあましている。今日同じ場所でと約束したものの時間を決めてなかったなんて、なんだかまぬけだ。
日曜日だというのに、太陽は休みなく働いているようで、逆に雲は仕事をさぼっている。相変わらずこの石段には誰も来ない。石段のふもとの道路をたまに誰かが横切る程度だ。ちなみに、道路は石段から見て右から左へ少し急な下り坂になっている。
とりあえずお昼前に来てみたものの、リカの姿はまだ見えない。あ――もしかして昨日と同じ時間に来るつもりなのかもしれない。そう考えるのが普通だろう。だとしたら少し早く来すぎてしまったようだ。
それまでここで待っていようか、どこかで時間をつぶしていようか悩む。どこかに行くなら、せっかく登った石段を降りなければならず、少し面倒くさい。一気に降りる方法はないだろうか――。
いや、ある。足で一歩一歩進むから遅いのであって、ごろごろと転がっていけばたぶんすぐに降りられるはずだ。もしかすると痛いかもしれないし、そうでないかもしれない。
――とりあえず、試してみる。ひとつ下の段に向かって軽く前転。なんだか体が空中に浮かんでしまった感じがするな。と思った瞬間、全身を石段にぶつけ、体の背面を耐え難い激痛が襲う。前転中に少し体が左にそれたようで、左わき腹を強打する。その勢いで体全体が横倒しになり、その勢いのまま横向きに転がりだす。
ものすごく密度の高い時間が流れ出す。まず始めに後頭部を強打し、信じられないほどの激痛が僕を襲う。そのせいで方向感覚がまるでわからなくなり、自分の体のこと以外に何も考えられなくなる。視界がめまぐるしく回り、空と草木がらせん状に融合したような景色が見える。とりあえず、後頭部を守るため限界まで顎を引く。
体の前面と背面を交互に打ちつける。前面を打つときは腕で体をかばうものの、石段一つ一つが滑らかでなく、ざらざらしているため非常に痛い。背面を打つときはとても息苦しく、内臓がかきまわされている感じがする。特に頭を打たないよう注意する。
だんだん勢いが失われてきて、そろそろ止まってくれそうだ。もう少しで、痛みと酔いが限界を超えて、意識を失ってしまうかもしれないところだった。最初の前転のとき、もっと勢いをつけていたら本当に危険だったかもしれない。
やがて、長い長い時間を経て、ようやく仰向けの状態で停止する。未だに景色がぐにゃぐにゃと回っているが、そのうち止まるだろう。それよりも、やはり最初に打った後頭部の痛みが問題だ。少しでも動かせば激痛が走る。
なので、しばらくこの状態のまま寝ていることにする。どうせこの石段にはめったに人が来ないので、見られることはないだろう。リカが来るだろう時間にもまだ余裕があり、その頃にはたぶん回復しているはずだ。体中がところどころ痛いものの、目立つ外傷も出血も少なそうなのは助かった。
青い空と輝く太陽が僕を見下ろす。僕の行動を遠く見ていた彼らは、その広大な心で一体何を思うのだろうか。木の葉を揺らすその風は、一体僕に何を伝えようとしてい――
「ソウスケ、どうしたの――!?」
……リカの視界に、僕が映った。
○ ○ ○
「ソウスケ、ねぇ、大丈夫!?」
楽しみにしていたソウスケとの約束。ちょっと早いかなと思ってきてみたら、そこには信じられない光景が広がっていた。
もうソウスケは来ていて、そして倒れているのだから――。
「ソウスケ、何があったの?ねぇ、返事をして――目を開けて――!」
呼びかけても、揺さぶっても、ぜんぜん反応がない。
それはまるで、私の声が届いていないかのように。
頭の中に昨日のルルステの姿が浮かぶ――。
その姿が、今のソウスケの姿に重なる――。
嘘だ…………
ソウスケまで死んじゃうなんて、そんなの嘘だ…………
ソウスケがいなくなったら、私は生きていけない。
嘘だ、嘘だ……!
そんなの嫌……ソウスケが死んじゃうなんて、そんなの絶対に嫌……!
景色が真っ暗に染まってゆく。
心が絶望の色で塗りつぶされる。
……これも、私のせい……?
私がもっと早くに来ていれば――
ソウスケを、助けられたかもしれない。
私が――
私がソウスケを殺したんだ――
「ソウスケ、ソウスケ……いやあああああああああ!」
「おはよう、リカ」
「ソウ――え……?」
「今日もいい天気だね」
「あ…………」
あれ、どういうこと?ソウスケは生きてる?私に話しかけて……ソウスケはなんともないの?
あ、そうか、ソウスケのいつものイタズラ――また私ひっかかっちゃったんだ。
「ひどい、ソウスケ!本当に、本当に心配した!死んじゃったのかと思って……怖くて、怖くて……」
「あはは、ごめん。そんなに驚くと思わなくて」
本当に、心が張り裂けそうだった。あのままソウスケが起きなかったら……きっと私は死を選んでいた。
「でも、よかった。ソウスケがなんともなくて。すごく、安心した」
「ごめん、心配かけちゃったみたいだね」
本当に心配したけれど、ソウスケが無事ならそれでよかった。心がホッとする。
なんだか、ソウスケと会うと、憂鬱な気持ちとかすぐにどこかに飛んでいっちゃうな。ここに来るまでは、昨日のことでずっと心は真っ暗闇だったのに。ソウスケは、いつも私を助けてくれる。
やっぱり私、ソウスケのことが好き――。
「ソウスケ、今日もお話しよう?今日が終わるまで、ここでずっと。二人っきりで」
「……うん、わかった。でもせっかくだから、ここじゃなくて――」
「昨日と同じ段?」
「いや、そうじゃなくて、上の神社にでも行かない?」
「神社……」
「あれ、神社は嫌い?」
「ううん。ソウスケと一緒なら、怖いところなんてないよ」
「よし、じゃあ行こうか。ちょっと大変だけど」
「うん!」
ソウスケと一緒にいられれば、私はそれでいい。ソウスケと一緒にいると、心が満たされる。こんな感情、ソウスケと会うまではまったくなかった。ソウスケは、私を救ってくれるんだ。
この幸せが、ずっと続けばいいな――
そう思いながら、私はソウスケと一緒に石段を登り始める。
ソウスケ、あなたのすべてをちょうだい――私のすべてをあげるから――。
◆ ◆ ◆
「やっと、着いた……結構疲れるね……リカ、大丈夫?」
「私は、だい、じょうぶ……」
口ではそう言うものの、肩で息をしており、見た目にも疲れている様子がわかる。僕もかなり体力のない方であるが、リカはそれ以上だろう。リカには少し重労働だったかもしれない。
「静かなところ……少し、不気味……」
一通り周りを見渡しながら、リカがポツリと言う。不気味、ね……まぁわからなくもない。立派な建物はあるのに、人の気配がなく、聞こえるのはただ静寂。人のない人工物というのはそれだけで不自然なのだ。
「リカも何か願い事してみたら?」
「…………嫌。私は、自分のお願い事は自分で叶える。神様とか、信じてない……」
一瞬、賽銭箱のほうを見たものの、すぐに僕のほうに振り返る。その考え方は、リカらしいと言えばリカらしい。僕もずっと一人で、人に頼るということをほとんど知らずに生きてきたので、なんとなく理解できる。リカと僕の違いは、リカには叶えたい望みがたしかにあって、僕には特にそれがないということだ。
「それに、私のお願い事、もう半分くらい叶っているもの」
「そうなんだ。……そういえば、僕も半分くらい叶っている気がするな」
まぁ、お金も払ってないし、てきとうに言った願い事だけど。神様は意外と、真剣でない人の望みを叶えるのだろうか。いや、気まぐれなだけか。
「ここにいると、この世界に私たち二人だけになっちゃったような気がするね」
周りを取り囲む高い木々からもれる太陽の光。それらの木々を揺らすことで、姿は見せなくても音を聞かせる涼やかな風たち。自然がつむぐこの空間は、普段暮らしている世界とは切り離された場所のようで、たしかに非日常の感覚を僕らに与えてくれる。
「そうだね……今なら誰も見てないし、思いっきり遊ぼうか」
「じゃあ私、かくれんぼがしたい」
「いいけど、なんでかくれんぼ?」
「だって、二人いないとできないから」
「なるほど」
つまりはリカも僕も、かくれんぼ初体験というわけだ。とはいえ、たいていの遊びは一人ではできないので、お互いほとんどの遊びをやったことがないはず。遊びとは、相手がいるから生じるものなのかもしれない。
「ソウスケが鬼ねっ。私隠れてくるから、百数えて!」
「いーち、にーい、よーん……」
「わ、わ、もっとゆっくり!」
かくれんぼが始まった。リカは慌てて神社の裏のほうに走っていき、すぐに見えなくなる。ここはそんなに広くないので、すぐに見つかってしまうのではないだろうか。いや、リカは体が細いから、思いがけないところに隠れるかもしれない。
「きゅうじゅうく、ひゃーく」
さて、リカを探さなければ。
いや、ここはあえて、鬼の僕が隠れてみてはどうだろう。たぶんルール違反にはならないはずだ。
ということで、隠れてみることにする。社へと続く、階段の下へ。少し狭いが、木の板にお尻をのせて、階段の裏側を見るように体育座りをしていれば長時間もちそうだ。
……僕が百まで数え終わってから、ずっと静寂が支配している。誰も見つけようとしていないのに、お互いが隠れているというまぬけな状況。この社の神様は、自分の前後に隠れる少年少女を見て、一体何を思うだろうか。
……しばらくすると、ガサガサと音が聞こえ始めた。リカの動く音だろう。ふと横を見ると、リカの足がかすかに見える。どうやら僕がいないことに気づいて、歩き回り始めたようだ。今がチャンス。そろそろ出て行こう。
「ソウスケ、ソウスケどこ!?いなくなっちゃやだ!怖い、怖いよ……!」
「みーつけた!」
ポンとリカの肩に手を乗せる。
「ソウスケ!」
「リカの負けだね」
「あ…………ず、ずるい!ソウスケずるい!せっかく私、絶対見つからないところに隠れてたのに」
「あはは、ごめん。かくれんぼって初めてだからよくわからなくてさ」
「もう……」
「でも、楽しかったよ」
「うん……ねぇ、ソウスケ」
「なに?」
「私、今すごく幸せ。こんなに楽しい時間、生まれて初めて」
「それはよかった」
「ずっとずっと、こんな幸せな時間が続いていけばいいな」
その願いも、けっして神頼みにすることなく、リカは自分で叶えようとするのだろう。
僕たちは暗くなるまで、この狭い神社で、いろいろな遊びを次々に試していった――。
○ ○ ○
『今日は最高の一日だった。
前は怖かった石段の上の神社。今日からは、私とソウスケだけの特別の場所。
ソウスケと遊んだかくれんぼ。ソウスケと遊んだおにごっこ。ソウスケと遊んだだるまさんがころんだ。どれもこれもぜんぶすごく楽しかった。
かくれんぼをしたときのソウスケは――』
日記を書く手が止まらない。気持ちが先走って、手がそれについてこれないのがもどかしい。
ドアのほうでうるさい音がするけれど、そんなのちっとも気にならない。今はとにかく日記が書きたい。日記を書いていないと、この高ぶる気持ちの行く宛がなくて、どうしていいかわからない。
『ソウスケはずっと優しかった。かくれんぼで私が負けたときも。おにごっこでへとへとになっちゃったときも。ずっとずっと私に優しくしてくれた。ソウスケは、私だけを見ていてくれる。私だけに優しくしてくれる――』
このまま、今日の分でノートが終わっちゃうのじゃないかと思うくらい、たくさんたくさん書き続ける。ひざに乗せているエルも、私の気持ちが伝わっているのか、どこか嬉しそう。
『ソウスケと遊んでいるとき、すごくすごく幸せだった。ソウスケのことを考えているだけでも楽しい。私とソウスケはきっと、運命の二人なんだね。ソウスケもそう思っているよね。ソウスケ、好きだよ。すごくすごく好き。どうしたらこの思い、伝えきれるかな。ソウスケとまた二人きりになりたいな。他のものはぜんぶいらない。ソウスケと二人だけの世界に行きたいな』
気がつくと、もう一時間以上、日記を書いていた。まだまだ書きたいことはあるけれど、気持ちをノートに書き下ろしているうちに、少しずつ心も落ち着いてきた。
日記を読み返す。幸せな気持ちになる。もう一度読み返す。幸せな気持ちになる。もう一度読み返す。幸せな気持ちになる。
うん、今日はこの辺で、終わりにしよう。一日にあんまり書きすぎたら、日記じゃなくなっちゃう。
ペンたてにシャープペンシルを戻そうとして、気づく。あれ、これカッターだ。あはは、失敗失敗。気持ちばかりが先回りして、今までシャープペンシルを握っていたと思ったのに、ずっとカッターを握っていたなんて。ちょっと恥ずかしい。
ソウスケに、会いたいな――。
私はソウスケに会いたいし、ソウスケは私に会いたい。なのに、なんで私はこんなところにいるのだろう。こんなの、絶対におかしいよね。
うん、ソウスケに会いに行こう。わざわざ嫌いな人間と一緒にいる必要なんてないんだ。好きな人と一緒にいたいと思うのが、普通だもの。
ソウスケの家は、最初に会った日にだいたい教えてもらった。うん、問題なく行けるはず。こんなに遅くなってから外に出るのは初めてでドキドキするけれど。ソウスケと会ってからは、初めてのことばっかり。それがすごく楽しい。
私はバッグに必要なものを準備して、ソウスケの家に向かった――。
◆ ◆ ◆
不思議な音がした。
それは僕の家の玄関の扉を開ける音であり、不思議どころか聞きなれた音であるのだが、状況によってその音が意味することは違うのである。
つまり、今僕は自分の部屋にいて、ということは他の誰かが、僕しか住んでいないこの家の玄関の扉を開けたということだ。それも、この夜中に。
泥棒さんだったら申し訳ないが、この家に価値のあるものなどほとんどない。貴重品は基本的にこの部屋に置いてあるので大丈夫。強盗さんだったら……物理的に危害を加えて、強引に取っていくかもしれないけど。
気になったので、とりあえず見に行ってみることにする。そういえば、玄関の鍵はかけてなかったかもしれない。日ごろから防犯意識はまったくなかった。
部屋を出て、一階へ。おや、普通に明かりがついている。と思ったらそこにはリカが立っていた。
「あぁ、リカだったんだ。こんな夜中に、どうしたの?」
「ごめんね、ソウスケ。ノックしたのだけれど……ぜんぜん反応がなくて。扉開けてみたら開いちゃって」
「あぁ、呼び鈴がないからね……」
考えてみれば、なんとも無警戒な家である。呼び鈴もつけず、鍵もないなら、勝手に入ってくださいと言っているようなものだ。
「ソウスケに会いたくて、来ちゃった。あんな家もう嫌。あそこにいたら、私おかしくなっちゃう。今日、ソウスケの家に泊まりたい」
「ん、まぁ僕は構わないけど……」
そんなことして、リカは大丈夫なのだろうか。余計に家族の風当たりが強くなりそうな気がするけど。
「よかった!これでまた一緒にいられるね」
――いつもならもうとっくに寝ている時間を過ぎた。しかしそれでもあまり眠くなく、まだ十分に起きていられる。僕とリカはさっきからずっと、二人でベッドに腰掛け、ただ単に話をし続けている。
僕の部屋に自分以外の人がいると、なんだか違和感がある。なんとなく、部屋の雰囲気まで変わっている感じだ。これが美少女の効果なのだろうか。
「ソウスケ。私、ソウスケのこと大好きだよ」
「僕もリカのこと好きだよ」
「世界で一番好き。ソウスケは、私のすべて。ソウスケ以外の人間はみんな大っ嫌い。この世界には、ソウスケと私の二人だけでいい」
落ち着いた、綺麗な声でリカが言う。
僕はリカ以外には好きな人間もいなければ嫌いな人間もいない。ということは僕も、リカ以外の人間は必要ないことになるのだろうか。
「ねぇソウスケ。私たち、私とソウスケだけの、二人だけの世界に行こう?」
「二人だけの世界?」
「そう。邪魔な生き物はひとつもいなくて、私とソウスケだけしかいない世界」
「うーん、人間なんてどこにでもいるけど……どうやって行くの?」
「心で行くの」
「心で?」
「うん。二人だけの世界は心の世界。心が私たちの存在しか認めなければ、それは実際に私たち二人だけしかいないということなの。これからは私たちの心は二人だけの世界にあって、私とソウスケの心はそこで永遠につながっているの」
なんとなく、理屈はわかったような気がする。しかし、果たしてそれは上手くいくのだろうか。
……リカならきっと、上手くやるのだろう。その疑いのない、純粋な瞳がそう物語っている。つまり、僕が理解して適応すればいいということだ。
「でもさ、いくら二人だけの世界に心があっても、誰かに物理的に接触されたら……さすがにそれを否定することはできないんじゃない?」
「大丈夫。私たちの世界は誰にも邪魔させないよ」
そう言ってリカはベッドを降りて、自分のバッグをあさり始める。僕も使っている、学校指定の青いバッグだ。
「なんとなく、ナイフが出てくるような気がするな」
「え、すごい!なんでわかったの?」
と驚きながらも少し残念そうに、ナイフを取り出す。なんでわかったんだろう。自分でも驚きだ。
「ソウスケもやっぱり、同じ気持ちなんだね。大丈夫。心の世界は、絶対誰にも邪魔させない」
リカという一人の人間の中に、いったいどれほどの感情が詰まっているのだろう。その半分を僕が受け持てば、ちょうどいいのかもしれない。
「なるほど……わかったよ。一緒に、二人だけの世界へ行こう」
どうせ退屈だったんだ。これからは、僕のすべては、リカのために使って生きていこう。
「ありがとう!嬉しい!」
そう言ってリカが抱きついてくる。一瞬ナイフが目の前を通り過ぎたけど、幸いどちらにあたることもなかった。このナイフはいずれ、誰かに向けられたりするのだろうか。
二人だけの世界――それはどんな世界なのだろうか。この世界と比べて、何があって、何がないのだろう。そこに行くには、何を失い、何を手に入れる必要があるのだろう。そんなことを考えながら、僕は眠りについた――。
○ ○ ○
私はいつの間にか道路の真ん中に立っていた。着ているのはいつもの黒い制服。デザインや雰囲気が私の好みで、とても気に入っている。
あたりに人気はまったくなく、音もしない。世界が止まっている感じがする。でも、それも当たり前か。
少し歩くと、コンビニが見えてきた。他はモノクロ写真のように暗いのに、このコンビニだけは明るく光っている。特に目的はないけれど、行かなきゃいけないような気がしたので、入ることにした。
入ってみると、真っ暗だった。電気をつけなきゃ。と思っていたら、だんだん明るくなってきた。そっか、自動で電気がつくシステムだったんだ。
中は思ったよりもずっと広く、本の香りが漂っている。コンビニだと思って入ったけれど、ここは図書館だったんだ。
受付には二体の人形が立っている。この図書館は初めてだから、図書カードを作らなきゃ。と思ったけれど、やっぱりある程度見回ってからにしよう。借りるときに作ればいいのだし。
図書館を見回すと、奥行きがとても長いことに気がついた。向こう側の壁が見えなくて、どうなってるのかわからない。こんなに広い図書館があったなんて。私はちょっとわくわくした。
奥のほうに歩いていくにつれて、本棚が少なくなっていく。ベンチばかりになっていって、それでもまだ奥に続いてる。本棚をちらちらと見ながら歩いているけれど、外国語の本ばかりで、私には読めそうにない。それにしても、私のほかに利用者はいないのかな?こんなにベンチがあっても意味がない気がした。
……と、突然、視界が開けた。目の前に足場はなく、見下ろすと地面は遥か視線の先。ここは……学校の屋上だ。もう少しで、そのまま歩いて落っこちちゃうところだった。こんなところに続いているなんて、あまりに危険すぎると思う。
――そのとき、強風が吹いた。油断していた私は、バランスを崩して足を踏み外してしまう。しまった、と思ってももう遅く、もう絶対に助からないという感覚が全身を襲う。
不思議と冷静に、自分の落ちてゆく先を見つめると、私の少し先にはソウスケがいた。私と同じように、落ちている最中。ソウスケに追いつかなきゃ。そう念じると、落ちるスピードが少し早くなり、少しずつソウスケに近づいていった。
そして、落ちてゆくにつれて、世界がだんだんと傾きだした。重力の方向がちょっとずつ変化している。このままいくと、後ろが空に、前が地面に、下が校舎の側面になりそう。そうなったら、ソウスケも私も、助かるかもしれない。
ちょうど九十度、世界が傾き終わり、実際そのとおりになった。私は勢いで校舎の窓の上に転ぶ。ソウスケは上手く立って、そのまま当然のように歩き出した。
待って、待ってよソウスケ――どこに行くの?私もつれていって。置いていかないで――。
◆ ◆ ◆
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
月曜日の朝。今日からまた、学校が始まる。
リカと手をつないで、玄関を出る。今まで、誰かと一緒に登校したことはなかった。やがてはこれも、日常になるのだろうか。
細い手足を動かし、長い黒髪を揺らして歩くそのリカの姿は、まるで芸術品のようだ。
「そういえば、昨日は僕の家に泊まったけど、リカは大丈夫?家族のこととか」
「誰、それ?この世界にそんなのない。私たち以外の人間の話、しないで」
「ごめん、そうだったね。ここは二人だけの世界だった」
リカの瞳には迷いがなく、そしてその声には揺るぎがない。リカはもうすでに、二人だけの世界を実行しているようだ。僕もそれに続かなくてはいけない。おそらくこれは、二人でやらないとできないことだろうから。
「ううん、私こそごめんなさい。ソウスケは私のこと心配してくれたんだよね。私、嬉しい」
相変わらず真剣な表情で、リカが言う。あまりに素直なその言葉は、まるでリカの心を直接僕に見せているようだ。
それにしても、こうして手をつないで歩いていると、自然と多くの視線が僕らに突き刺す。リカのその美少女ぶりもそれに拍車をかけているのだろう。しかしリカはまったく気にしていないようだけど。それもそうか、リカの世界に彼らは存在していないのだろうから。
――やがて、学校に着いた。少し狭い校門を抜け、僕らの学年の校舎へ向かう。相変わらず、全体的にモノクロな校舎だ。
僕とリカのクラスは違うので、ここでいったん別れなければならない。
「ソウスケと別れるの、嫌。一緒に授業受けたりできないの?」
「仕方ないよ。そう決められているから」
「そう…………残念。だけど、我慢する。お昼は一緒に食べよう?」
「わかった。約束するよ」
そう言って、僕らはそれぞれ自分のクラスへと向かった。
――授業は退屈だ。黒板にずらずらと並ぶ数式はまったく理解できないので、窓の外を見ることにする。リカなら僕と違って、数学くらい簡単にやってみせてしまいそうだ。勉強のできるできないというのは、単に性格の違いなのかもしれない。
外を眺めているとちょうど、学校のそばを走る線路を電車が通り抜けた。ここの教室は校舎の最上階なので、僕からは電車の上面が見える。電車に乗っている人たちには、決してそれは見えないだろう。それを見るには彼らは近すぎるのだ。
グラウンドは静まり返っていて、サッカーゴールが寂しそうに佇んでいる。その近くにある学校の旗も、やる気が出ないのかうなだれている。まるで外の世界だけ時間が止まっているようだ。電車が通ることで、また時間は流れだす。
そしてこちら側の世界も急な勢いで流れ出した。
「ソウスケ、よかった、いた!」
もちろん授業の真っ最中である。教師も生徒もみんな、何事かと呆然としている。しかし当の本人であるリカは、それらをまったく気にかけずに僕の元へと歩いてくる。
「えへへ、会いたくなって、来ちゃった!」
「そっか…………」
リカの世界には僕しかいないのだから、授業も何かの義務程度にしか思ってないのだろう。だからそれを破っても、特になんとも思わないのだ。
さて、どうするか。
「ソウスケ、数学のお勉強してたんだ。私が教えてあげるね!」
「はは……ありがとう。それじゃ、図書室に行こうか。本といえば勉強、勉強といえば図書室、図書室といえば本だよね」
「……?」
さて、この隙にリカをつれて僕らはさっさと退散するとしよう。後で何か言われるだろうが、てきとうに僕のせいにしておけば何とかなるだろう。
しかし、その前に教師が僕らの元へやってきた。
そして、リカの肩に手を置く。
リカはそれを一瞥すると、もっているバッグの中に左手を突っ込む。
そこからナイフを取り出し、何のためらいもなく教師に向かって――
ぐっ――。
すんでのところで、僕はナイフを握ってそれを止めた。左手が裂けるように痛い。いや、確実に裂けている。血が流れる感覚――しかし零してはいけない。痛いが、力を込めて血を零さないようにする。
教師が気づいていないようなので、まだ誰もナイフの存在に気づいてないだろう。しかし少しでも不自然にすれば、少しでも痛みに声を上げれば、すぐにばれてしまう。
「あ……あ……ソウ、スケ……!ソウスケ!」
まずい。早くここから出ないと。
「ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!私、私、私、そんな……、そんなつもりじゃ……あ……あ、あ……」
「大丈夫、僕は大丈夫だ。とりあえず、廊下に行こう。ここはよくないから。リカと二人きりになりたいな」
そのまま、左手でナイフ、右手でリカの手首を持ち、リカと体を密着させながら無理やり教室を出る。幸い、みんな呆然としているようで、誰も追ってこないようだ。何とか騒ぎにならずに済んだ。それにしてもリカの体は軽い。力が抜けているのかもしれない。
「ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……」
歩いている間中、リカはずっと謝りの言葉を述べている。
「いや、たいした傷じゃないから、大丈夫だよ」
それにしても、あの勢いのナイフをよくこの程度の怪我で止められたものだ。人間、緊急時にはかなりの集中力が発揮されるようだ。もう一度やれと言われても、絶対できないだろう。
さて、ここまでくれば、とりあえず大丈夫だ。教室の階から二つ降りて、普段人の来ない空き教室の前へと来た。
「ソウスケ、保健室に行かないと……血が、血が……」
「いや、保健室はまずいかな…………」
「でも、手から血が……私のせいで……早く、手当てしないと……!」
「リカのせいじゃないよ。僕はリカの邪魔をしたんだ。僕こそ、ごめん」
「病院、病院に行かないと!」
「病院ね……そうしよう。リカは、荷物はそのバッグでぜんぶだよね?今日はもう早退して、家に帰るんだ、いいね?」
「私も、私もソウスケと一緒に病院に行く!」
「いや、僕はぜんぜん平気だよ。大丈夫だ」
「でも――」
「一緒に病院に行くと、きっとまた二人だけの世界を邪魔されるんだ。だから、いったん、ここで別れよう。僕も二人だけの世界を守りたいんだ」
「う……うん、わかった。ソウスケが、そう言うなら……」
「よし、いい子だ」
「ソウスケ、無事で戻ってきてね」
――病院に行くというのは嘘だ。それほどの傷じゃない。僕には一人で考えたいことがあった。
ということで屋上へ向かう。実際、手の傷はそんなにたいした傷じゃない。
――誰に会うこともなく、屋上へたどり着く。
――僕は、リカの心をちゃんとわかっているのだろうか――
ここから飛び降りようとしていたリカの思い。石段で不安に押しつぶされそうになっていたリカの思い。夜中にもかかわらず僕の家を訪れてきたリカの思い。授業中であることをまったく気に留めずに僕に会いに来たリカの思い。ためらいなく僕以外の邪魔者を排除しようとしたリカの思い。そして、二人だけの世界を提案してきたリカの思い――。
それらを僕は、本当に理解しているのだろうか。
リカの言葉を、一つ一つ聞いてきた。
リカのために、僕のすべてを使おうと思った。
リカの二人だけの世界に、僕も行くと約束した。
でも、ならなぜ――
僕はリカを止めたんだ?
○ ○ ○
雨の音が心に痛い――。
それは心の空洞に溜まっていくように。
今までずっと晴れだった分、これからしばらくは雨や曇りが続くみたい。
なんだか私の状況を映しているみたいで、とても不安になる。
――昨日は、失敗しちゃったな――。
ソウスケを、傷つけてしまった。
そんなこと、絶対にあってはいけないのに――。
それもこれもぜんぶ、あの邪魔物が悪い。
邪魔さえ入らなければ、ソウスケを傷つけてしまうこともなく、もっとたくさんソウスケと一緒に過ごせたのに。
なんで、ソウスケ以外の物はみんな、私にひどいことをするのかな。
私はソウスケと一緒にいたいだけなのに。
私とソウスケとで世界は完全に閉じているのに、なんでわざわざ邪魔をしてくるのだろう?
わからない。
みんな死んじゃえばいいのに。
――そんなことを考えていると、いつの間にか校門まで来ていた。
なんだか周りが騒がしい。でも、二人だけの世界にはそんなのもう関係ない。
すぐにソウスケの教室に向かう。――まだ、来てないみたい。すぐに会えると思ったのに残念。
――しばらく待っているけれど、ソウスケは来ない。――やがて、予鈴が鳴る。もうすぐ授業が始まってしまうけれど……どうしたのだろう……遅刻かな?
授業が始まる前に、自分の教室に戻らなくちゃ。昨日みたいなことは起こしたくないから。
本鈴が鳴ったというのに、授業は始まらない。あ、そうか、今日は一時間目がないんだ。ソウスケのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れちゃってた。
やがて二時間目になると、うるさい物が教室に集まってきて、授業が始まった。二時間目が終わったら、ソウスケの教室に行こう。今度はちゃんといるはず。
――やがて二時間目が終わって、ソウスケの教室に行く。ソウスケは…………いない。お手洗い……かな?しばらく待ってみよう。
……もうすぐ三時間目が始まる。なのに、ソウスケは来ない。おかしいな……寝坊しているのかな……。それとももしかして、何か悪い病気にかかっていたりして、学校に来られないのかも……!
学校なんかにいる場合じゃない。ソウスケが学校に来られないのなら、私がソウスケのところに行かなきゃ。急いで自分の教室に戻って、バッグを取り、昨日と同じように早退する。
「ソウスケ、待っててね。今行くから――」
――心は焦りながら、気持ちは不安になりながら、やっとのことで、ソウスケの家の玄関の前まで来る。あたりは雨の音しか聞こえなくて、なんとなく、嫌な予感がする。
「ソウスケ、いる!?」
ノックをしても、呼びかけてみても、返事がない。
怖い――。
ソウスケに何か、よくないことが起こっているのだと思うと――。
不安の塊が心を食い破って、頭がおかしくなりそう――!
「ごめんねソウスケ、開けるよ!」
前と同じように、玄関の扉には鍵がかかっていなかった。
ソウスケの、お部屋へ――!
そこには――
ソウスケはいなかった。
他の場所も探してみたけれど、どこにもソウスケはいない。
音のない家が、ソウスケがいないことを私に伝えているみたいで、それが私の心を不安定にさせる――。
嘘だ――
ソウスケはいなくなったりしない。
私はソウスケが好き。
ソウスケは私が好き。
二人はずっと一緒にいるのだもの。
――そうだ、もうソウスケは学校に登校した後で、きっと私と入れ違いになったんだ。うん、そうに決まってる。
だから、今度は学校に戻らなきゃ。急い、で。
なんだろう。雨のせいかな――少し頭がふらふらする。
とにかく、すぐに学校に行かなきゃ――。
だって、そこにソウスケがいるのだから。
私のいるべき場所は、ソウスケのいる場所なのだから。
同じ道を、今度は逆に向かう。
ずっと続いている雨の音は、私の心境にぴったりな気がする。
ソウスケ、私、今行くからね。
私が好きなのはあなただけだから。
この二人だけの世界には、私のほかに、あなたしかいないのだから。
――学校に着くと、ちょうどお昼休みの時間だった。
ちょうどよかった、すぐにソウスケの教室に向かう。
きっとそこに、ソウスケがいるはず――。
少し騒がしいソウスケの教室。窓際のソウスケの席まで行く。
でも、私の視界には――
ソウスケは映らなかった。
○ ○ ○
ソウスケが、いない――。
世界が黒く染まる。歪む。壊れる。
ソウスケがいない世界なんて、まったくの無意味。
ソウスケは私にとってすべてなのだから。
そんな世界、いらない。
壊れちゃえばいい。
消えちゃえばいい。
死んじゃえばいい。
世界を壊す方法は、とっても簡単。
――空を一歩、歩くだけ。
ソウスケがいないのなら、迷わず空を歩こう。
あとひとつ、試してみて――
それでもソウスケがいなかったら――
こんな世界とはお別れしよう。
そして、心の世界だけで生きるんだ。
ずっと一緒で――
なにも心配することなく――
永遠に。
――見慣れた屋上、緑のフェンス、冷たい雨。
何度目だろう、このフェンスを越えるのは。
狭い足場。
一歩でも踏み出せば――少しでもバランスを崩せば――
それは世界の終わり。
そして自分の終わり。
――ソウスケは、いつも私を助けてくれた。
初めて出会ったとき――
振り向いたら、そこにソウスケがいた。
だからきっと――
振り向けばソウスケがいるはず――。
――でも、もしいなかったら?
もしいなかったら……
あぁ怖い怖い怖い怖い怖い!
怖くて怖くて振り向けない!
恐怖が心に収まりきらなくて、破裂してしまいそう!
いっそのこと、そうなっちゃえばいいのに!
それでも、体を壊すのは自分でやらなきゃいけない!
心が壊れるだけじゃ、だめ――。
もし、何かが私にひどいことをしているのなら――
お願いだから、もうやめて……!
私は、ソウスケさえいればいい!
それ以外に何も望まないの!
だから、私からソウスケを奪わないで!
「あ……」
ソウスケは、いた――。
「ソウ、スケ……」
これ、嘘じゃないよね――?
「ソウスケ、ソウスケなの……?」
やっぱり、来てくれたんだ――。
「他に誰に見える?」
「ソウスケっ!」
「ごめん、なんだかずいぶん心配させちゃったみたいだね」
「心配した!いなくなっちゃったのかと思って!怖くて怖くて、死んじゃいそうだった!」
「ごめんごめん。ちょっとね、リカの言ってたこと、考えてて」
「私の……?」
「そう。リカの心を理解するために、僕なりにいろいろやってたんだ。来るのが遅れちゃって、ごめん」
「な、なんだ、そうだったの……。あはは、ぜんぜん気づかなくて、一人で不安になっちゃってた。でも、そんなことなら、ぜんぜんいいよ!ううん、むしろすごく嬉しい!」
ソウスケは、やっぱり私のことだけを考えてくれてるんだ。
そんな当たり前のことに気づかず、私は何をやっていたのだろう。
でもよかった。ソウスケがいて。本当に、よかった――。
「でも、ソウスケ。もういなくなっちゃヤダよ?もうずっと離さない。ずっと一緒にいる。何かするのなら、私も一緒にする」
「わかった、そうするよ。じゃあ、まずは一緒に帰ろうか」
「うん!」
○ ○ ○
「ソウスケ、ここが私の家だよ」
ドキドキする。
ワクワクする。
今まで、自分の家に人を招いたことなんてなかった。
ソウスケが、最初の人。
そしてもちろん、最後の人。
「はは。ちょっと緊張するな。それじゃおじゃまします……」
「うん、どーぞ!」
緊張することなんてないのに。
ソウスケと私は、一心同体。
私の家は、ソウスケの家なのだから。
でも、ソウスケのそういうところ、とても可愛い。
「こっちこっち!私のお部屋、二階だから!」
…………。
…………なんだろう。
……音が聞こえる。
とてもとてもとても私の嫌いな音。
でも、そんなこと、もう関係ないんだ。
ここは私とソウスケとの二人だけの世界なのだから。
「ソウスケ、早く~」
「ごめんごめん、今行くよ」
……音がさっきよりうるさくなった気がする。
私の嫌いな音。
世界で一番嫌いな音。
「ソウスケ、ここが私のお部屋だよ。早く入ろ?」
うるさいうるさいうるさい……。
私たち二人だけの世界を邪魔しないで……!
「キャアッ!」
痛い!
壁に頭と背中がぶつかった。
「リカ、大丈夫?」
「う、うん。ありがとソウスケ」
何……?
私たちの邪魔をするのは何……?
「ヤメテ……」
そんなもの、許さない。
「ソウスケヲ奪ワナイデ……!」
ソウスケ以外のものなんて、なくなっちゃえばいい。
「私タチノ、邪魔シナイデ!!!」
ここは、私とソウスケの二人だけの世界なのだから。
……………………
……気がつくと、静かになっていた。
左手に持ったナイフ。
黒を基調とした制服。
木目の床。
階段の最上段。
部屋の扉。
横たわる何か。
そのすべてが、赤く赤く染まっている。
世界はまたひとつ、狭くなった。
よかった……。
もう音は聞こえない。
私たちの世界は、綺麗になったんだ。
「ソウスケ、私、守ったよ。二人だけの世界、心の世界を」
「うん。見てたよ、リカ。ありがとう。リカは頼もしいね」
ソウスケに褒められちゃった。
とても嬉しい。
心が満たされてゆく。
「ソウスケ、お部屋に案内するね!」
○ ○ ○
辺りが暗く黒く染まる、その時刻。
ソウスケと一緒だから何も怖くない。
今日が終わってしまうのはとても残念。
けれど、そろそろ寝なきゃ。
でもその前に。
「ソウスケ、私、寝る前に日記書くね」
この素晴らしい日は、日記に記しておかないと。
「わかった。じゃあ僕はぬいぐるみとでも遊んでるよ」
やっぱり、私の好きなものはソウスケも好きなんだ。
それがとても嬉しい。
『今日も素敵な一日だった。
ソウスケはやっぱり優しくて、私はやっぱりソウスケが大好き。
今日のソウスケは、』
「あれ、リカ。ベッドの上、エルがいないみたいだけど」
「あ、うん。エルなら、ここだよ」
と言って私はバッグの中を開ける。
エルを取り出して、ソウスケに渡す。
「かばんの中に持ち歩いてたんだ」
「うん。学校に行くとき、少し不安だったから」
「そっか。リカらしいね。……はじめまして、エル」
そう言ってソウスケはエルを受け取る。
やっぱり、ソウスケのお気に入りもエルなんだ。
当たり前だけれど、それでも嬉しい。
『……お風呂では、私に付いていた血を、ソウスケは一生懸命洗ってくれた。
きっとソウスケも、私たち以外の血が嫌だったんだね。
そんな優しいソウスケ、大好き。
好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き大好き。
いくら書いても、文字じゃ表せない。
ソウスケソウスケソウスケソウスケ。
ソウスケソウスケソウスケソウスケ。
ずっと一緒だよ』
これで今日の日記は終わり。
「ソウスケ、エルとは仲良くなれた?」
「なれたよ。エル、リカにそっくりだね。リカは、日記は終わったの?」
「うん、終わった。私もそっちに行くね」
ソウスケとベッドで向かい合う。
周りにはぬいぐるみ。
枕もとにはエル。
こんなに、こんなに落ち着く場所なんて他にない。
幸せの場所。
理想の場所。
永遠の場所。
心の心は心で満たされる。
これが、私の望みの世界なんだ。
ここだけ切り取って、ひとつの世界にしよう。
閉じられた、限りのない、二人だけの世界。
あるのはただ、心の幸せ。
それがそれでそれのすべて。
「ねぇソウスケ……」
「なんだい?」
「ここ、幸せだね」
「そうだなぁ……少なくとも不幸はないね」
「不幸は、外の世界だけのものだよ」
「外は広いし、なんでもあるからね」
「ソウスケ」
「うん?」
「夢の中でも、会おうね」
○ ○ ○
「ソウスケ、朝だよ。遅刻しちゃうよ」
好きな人を起こす――。
ただそれだけの行為が、こんなに楽しいものだったなんて!
私の知らない楽しいこと、嬉しいこと、幸せなこと、きっとたくさんあるんだ。
これから、ソウスケと二人で一つ一つ積み重ねていこう。
「ん……おはよう、リカ……」
「おはようソウスケ。一緒に学校行こ?」
「ん、……もう、こんな時間か」
「ソウスケ」
「うん?」
「大好きだよ。ずっとずっとずっと永遠にいつまでもあなたのことが好き」
「……どうしたの、急に?」
「んふふ、なんでもない」
いくら言っても伝えきれない、この気持ち。
私の心を切り取って、それをソウスケに見せてあげたい。
そうすれば、きっとぜんぶ伝わる。
「ソウスケ、朝ごはん作ったんだよ。リビングにあるから、食べて!」
もう、この家は自由に使える。
好きな人に朝ごはんを作ることも。
好きな時間にお風呂に入ることも。
好きな人と、一緒に暮らすことも。
そのすべてが自由。
もうここは、私とソウスケの家なのだから――。
「これ、おいしいよ。リカは料理も上手なんだね」
褒められた。
褒められた。褒められた。
私の作った卵焼きを食べて、おいしいって言ってくれる。
心がゾクゾクする。力が抜ける。気持ちが高ぶる。
「そ、それじゃ、こっちのお吸い物はどう……?」
ソウスケがお吸い物をすする。この味、ソウスケにちゃんと合ってるかな……合ってるよね。合ってないわけない。
「うん、すごくおいしいよ。こういうの僕好きだな」
「よかった!」
やっぱり、私の好きなものとソウスケの好きなものはぜんぶ一緒なんだ。
今日作ったのは、どれも私の好きな食べ物。
卵焼きは甘口で、お吸い物は少ししょっぱくしてある。
特に卵焼きは思ったよりも上手くできて、自分でもおいしい。
「じゃあ、私片付けてるから、ソウスケは出る準備してて!」
「わかった。それじゃ玄関で待ってるよ」
好きな人と暮らすのって、すごく楽しいな。
これからは、こんな生活がずっと続くんだ。
幸せすぎて、逆に不安になっちゃうくらい。
「あれ?一人分、まるまる余ってる」
あ、そうか。
ソウスケに食べさせるのに夢中で、自分が食べるのを忘れてたんだ。
失敗。
だけど、ソウスケに満足してもらえれば、あとはいらない。
だから捨てる。お腹減ってないし、食べてる時間もないし。
「おまたせー。準備できた?」
「できたよ。それじゃ行こうか」
○ ○ ○
ソウスケと手をつないで、一緒に登校する。
手をつなぐのはとても好き。
手のひらから直接、相手の暖かさが流れ込んでくるようで、心のつながりがより強くなる。
ソウスケこそが、私のすべて――
それを確かめるように、ギュッと握る。
「ソウスケ、綺麗な曇り空だね」
「そうだね、いつ雨が降り出してもおかしくないな」
「そうなったら、相合傘しよう?」
「わかった。約束するよ」
えへへ。早く雨降らないかな。学校に着くまでに降って欲しいな。
「ねぇソウスケ、学校に着いたら、すぐに屋上に行こう?」
「うーん、それじゃ学校に行く意味がないんじゃないかな。授業を受けないと……」
「でもソウスケと一緒にいたい。離れたくない。一緒じゃなきゃ嫌」
「大丈夫だよ。心は、二人だけの世界にあるんだろう?」
「あ……そう、そうだよね。ごめんね、なんだか不安になって。心はずっとつながってるから、大丈夫だよね。ソウスケの言うとおりにする」
「うん。いい子だ」
えへへ、嬉しいな。やっぱりソウスケもちゃんとわかってるんだ。
ソウスケも、私だけしか見ていない――。
私も、ソウスケだけしか見ていない――。
完全な、二人だけの世界――。
よかった、これなら安心。
――ソウスケの教室の前まで来る。
「じゃあ、昼休みに、屋上で」
「うん……」
これからしばらく、一人にならなくちゃいけない。
でも心はつながっているのだから、大丈夫……。
ソウスケは教室に入っていった。
あたりが急に暗くなる。
私の教室は、こっちだっけ……?
静かで無機質な廊下を進む。
自分の教室に入り、自分の机に着く。
ちょうど、授業が始まったみたい。
ソウスケも、今頃授業を受けているのかな……。
でも大丈夫、心の世界では二人きりなんだから、平気なんだ。
平気なんだ……平気なんだ……平気なんだ……。
そうだ、心の世界でソウスケとお話をしよう。
ソウスケと私の心はつながっているから、私が描くソウスケの言葉は、そのままソウスケの言葉のはずなんだ。
授業中は喋っちゃいけないので、ノートでお話しする。
『ソウスケ、私学校って嫌い』
『どうして?』
『だって、ソウスケと一緒にいられないもの』
『しかたないよ。僕も授業は退屈だ』
『前は嫌なことがないから好きだったけれど、今はいいことがないから嫌い』
『昼休みになれば会えるよ。一緒にお弁当を食べて、一緒に帰ろう』
『うん!お昼休みが楽しみ!私ね、お昼休みになったらソウスケとしたいことがあるんだ』
『したいこと?それはなんだい?』
『えへへ、それはまだ秘密』
『秘密かぁ。気になるな』
『とっても素敵なことだよ。私とソウスケが、より深く結ばれるために、必要なことなの』
『それは楽しみだね』
『うん!私も楽しみ』
私の心と同じように、ノートがソウスケで満たされてゆく。
ソウスケとお話していると、嫌な気持ちなんてすぐになくなっちゃう。
今はもう、お昼休みが楽しみ。
ソウスケは、私のお願いを受けてくれるかな――。
ううん、受けてくれるに決まってる。
ソウスケも、それを望んでいるはずだから――。
ドキドキが止まらないよ、ソウスケ。
――授業が終わって、お昼休みになった。
一目散に、屋上を目指す。
少し重いドアを開けると――ソウスケはもうそこにいた。
ちょうど、私達が出会ったところのあたりに立っている。
やっぱりソウスケはちゃんとわかってる。
「おまたせ、ソウスケ――やっと会えたね」
「そうだね、授業は退屈だったよ」
あぁ――ソウスケと一緒にいるだけで、心が満たされる――。
「それでリカ、したいことってなんだい?」
「う、うん。あのね――」
ドキドキする。
少し恥ずかしくて、自然とうつむいてしまう。
でも、これは私とソウスケに絶対必要なこと――。
これをもって、私達の世界は完成するのだから――。
「私と――キス――して欲しい」
ソウスケの返事は――。
「キスね……いいのかい?」
「うん、ソウスケと――したい。ソウスケとじゃないと――嫌」
「わかった。……本当にいいんだね?」
「うん――」
「それじゃ、目をつぶって――」
ギュッと目をつぶる。
顔を少し上に向ける。
いく来るのかな……まだかな……。
その時間は永遠にも感じられる――。
○ ○ ○
そのとき、一輪の風が吹いた――。
凍える風は私の心を突き抜け、通る道を寒々と冷やしていく。
それはまるで意思を持つかのように、私の目を開かせる。
あれ、おかしいな……。
おかしいな……。
また、ソウスケのいたずらかな。
ふふ、ソウスケってばいたずら好きなんだから。
ね……?
ソウスケ。ソウスケ。
ソウスケ……?
………………。
そんなわけないよね……?
うん。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
嘘だよ。嘘。嘘。
嘘だよ。
嘘だよね?嘘。
嘘だ嘘だ。
嘘。嘘。嘘だよ嘘だよ?
嘘だよ……?嘘、嘘、嘘、嘘、嘘…………。
…………。
あ、あはは……。
あはははははっ……。
あはははははは!!!
そっか。
そっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっか。
。
気づいちゃった。
うん。
気づいちゃった。
そうだよね。うん。そうだよね。私、気づいちゃったんだ。
ここはね、二人だけの世界じゃないんだ。
ここはね。
ここは…………
――私だけの世界――
………………………………なんだ。
――気がつくと、私はフェンスの頂上あたりまで登っていた。
私は行かなくちゃいけない。フェンスの外側の世界へ――。
フェンスの上に立つ。
吹き続く風がすがすがしい。
私をそちらの世界へ歓迎してくれているかのよう。
ああ!前はこの景色を怖がっていただなんて、嘘みたい!
こんなに綺麗で、愛おしくて、美しい景色なのに!
心がドキドキして、飛び跳ねるよう!
こんなに心の底からわくわくする気持ち、久しぶり。
ううん、初めてかもしれない。
でも無理もない。
やっと私は答えを見つけたのだから。
やっと私はソウスケを見つけたのだから。
足場に降りるのももどかしく、私は死の世界の入り口に向かって飛び降りる。
そう、最初からこうすればよかったんだ。
なんで私はわざわざ生きていようとしたんだろう?
私の心はもうすでに、ソウスケとの二人だけの世界にあるというのに。
体を持っている意味なんてなかったんだ。
ううん、むしろ悪いことだったんだ。
でもこれで、ようやくソウスケとひとつになれる。
それは永遠の幸せ。
これできっと、ソウスケと二人だけの限りない世界へ行けるんだ。
今行くからね、ソウスケ。
「――ソウスケ、ずっと一緒だよ――」
◆ ◆ ◆
上を見上げる――。
空は晴れわたり、鳥はさえずり、風は無邪気に笑いあう。
静かな空気と太陽のあくびが心地よい眠気を誘う。
視線を下げると――。
遠くにグラウンドが目に入る。さらに視線を下に向ければ、プールや花壇、自転車置き場の屋根などがひっそりと佇んでいる。
僕は今、屋上の端っこに立っている。緑のフェンスの外側の、リカと初めて会ったとき彼女が立っていた場所だ。思っていたよりも足場は狭く、長い間落ちずに立ってられたリカはなかなかすごいかもしれない。
さて、ここに来てみたはいいけど、僕はリカの気持ちを理解できたのだろうか。たぶん、できていないのだろう。生きることをやめるために、ここから飛び降りたい、という意味はもちろん理解できる。でも、リカが僕に望んでいることはきっと違う。もっと深い理解を――共感をリカは望んでいる。
だから僕はまだリカの気持ちを「わかって」ない。リカの二人だけの世界へ行くには、これでは不十分だ。どうしたら、その世界へ行けるのだろう。どうしたら、その気持ちをわかるのだろう。どうしたら、その領域にまでたどり着けるのだろう。
――飛び降りてみれば、わかるかもしれない。僕はここに立っているだけで、リカのように飛び降りたいという思いはない。そこがぜんぜん違う。リカのように言えば、リカは、心は飛び降りていたのだ。
ということで、飛び降りてみた。急に不安定な感覚に包まれ、すごい勢いで落下する。空気抵抗が激しく、重力ってこんなに強かったんだと思わされる。足が上に引っ張られ、自然と頭が先になる。
でも、やっぱり僕の心は飛び降りていない。これではリカの気――
――――
――
上を見上げる――。
天井は見えなくて空が見える。
なんとなくきまぐれで屋上に来てみたけど、ついつい寝てしまった。教室と違って、屋上では起こしてくれる教師はいないみたいだ。
立ち上がってみる。暖かい風に挨拶される。う、眠い。もう一度寝ようか教室へ戻ろうか悩……あ、そういえば――。
まだいた。寝る前も見たけど、少女がフェンスの外側に立っている。ここの屋上はだいたい五階に相当する高さなので、落ちたらきっと死ぬだろう。少女もそれを承知でフェンスの外側に立っているはずだ。興味をもったので、彼女を観察してみることにした。
少女は下を――たぶんグラウンドのあたりを――見つめている。寝ていたので時間の感覚はあいまいだけど、結構な時間、あそこに立っているはずだ。それなのに、たぶん僕がいることに気づいていない。春風がときどき少女のスカートを翻すものの、それを気にかける様子がないのが何よりの証拠――になるわけはないけど。
フェンスは少女の背よりもずっと高い。わざわざそれを乗り越えたことになる。足場は普通にしていれば落ちないだけの広さはありそうだけど、遠目からなのでよくわからない。灰色の足場に立つその長い黒髪は、まるでモノクロ写真のようだ。フェンスは緑色だけど。
……よく見ると、あの人はリカって人だ。細い体に艶のある長い黒髪、典型的な美少女で、ちょっと有名な人。雰囲気が独特らしいのだけど、僕は面識がないのでよく知らない。
あんなところにいるとうことは、自殺しようとしているのだろう。飛び降りるか飛び降りないか、気になったので待ってみることにした。
○ ○ ○
下を見上げる――。
視線のはるか先には自転車の駐輪場。そして花壇。
そしてそこは――死の入り口。
ああ――死ってけっこう身近だったんだ。
景色が暗い。果てしなく暗い。黒い電車の音が聞こえる。景色が狭い。果てしなく狭い。赤い花壇しか見えない。
あそこに行けば死ねる。それはとても簡単なこと。空を一歩、歩くだけ。
――でも怖い怖い怖い怖い怖い!足が震えて動けない。心臓が飛び跳ねて痛い。体が心に逆らう。
あそこに行けば、楽になれるのに。私をきっと、救ってくれるのに。生きていたって、しょうがないのに。
踏み出せない……踏み出せないよ……なんで踏み出せないの……おかしいよ……おかしいよ……。
苦しい……苦しいよ……。お願い、吹いて強風!私を死の世界に連れて行って!自分じゃできない!私にはできない!お願い、殺して、誰か殺して、誰か、誰か……誰か…………。
誰か…………。
あぁ……なんだか落ち着いてきちゃった。これじゃもうだめ。今日はもうだめ。こうなったらもうだめ。おとなしく帰ろう……。
………………。
男子生徒が、こちらを見ている。
あれ……?なんだか状況がよくわからない。
不意に、彼は上を指差す。
なんだろう?その先を追ってみる。……空と、フェンスの上端が見える。他には……特に何も見えないみたいだけれど……。よくわからないので、視線を戻すと――男子生徒はくすくす笑っていた。
なっ――そんな子供っぽい……。でもこんなのにひっかかった私も子供っぽいかもしれない。
なんでこの人はこんなところにいて、なんで私をとがめることもなく、なんでこんなイタズラを――?さまざまな疑問が頭に浮かぶ。
そんな当惑する私を気にすることもなく、先に彼が口を開いた――。
◆ ◆ ◆
「今日はいい天気だね」
お決まりの台詞を試しに言ってみた。晴れているといえば晴れているが、ピーカンなわけでもない。
「曇っているけど……」
彼女にとっては曇りらしい。人によって見え方はいろいろということである。空を見上げずに答えたので、あるいは心情的なことを言っているのかもしれない。
「あなた、だれ?」
「リカ」
「それは私の名前」
「ソウスケ」
「ソウスケ、いつからそこにいたの?」
「今きたところだよ」
「本当に?」
「……ほんとは結構前からかな。四時間目あたりから」
「そこで、何してたの?」
「えーと、昼寝してた」
「お昼寝……?」
なんだか尋問が始まった。僕の無駄な嘘によって怪しさ全開である。リカはというと、目を開いて口を閉じて、不思議そうな顔で尋問……ではなく質問をしている。
「なんか、起きたらお腹減ったな……お弁当でも食べよう」
「私、お弁当持ってない」
「じゃ僕のを半分あげるよ。食べられたらもっと食べてもいいけど」
「え、うん…………。それじゃ、少しだけ」
「じゃ、えーと……はいおにぎり。中身は内緒」
と、自然な感じでおにぎりを差し出してみる。うつむき加減なリカは、つられてそのまま手を上げ――ガシャン!フェンスが悲鳴を上げた。またしてもイタズラ成功である。
「……ソウスケってイタズラ好きなんだ」
「リカが綺麗にひっかかってくれるから、ついね」
「ここ危ないから、そっちにいく」
そう言ってリカはフェンスを登り始めた。その仕草はリカに似合わないが、動作は手馴れている。おそらく、何回か乗り越えたことがあるのだろう。途中でカラスが一匹、上をらくらく通り過ぎた。人間にとっては重要な意味をもつこのフェンスも、鳥からすれば何の意味ももたないのだろう。
ほどなくして、リカはフェンスのこちら側――人間の生きる世界へと戻ってきた。
「それじゃ食べよっか」
「うん。いただきます」
こうして、僕とリカのランチタイムが始まった。
○ ○ ○
ソウスケは、不思議な人だった。
私が自殺しようとしていたところを見ていたはずなのに、止めもしない。逃げもしない。それどころか、それについて何も言わない。何も聞かない。それもどころか、一緒にお昼ごはんを食べる始末。
こんなに、悪意のない――無邪気な人は初めて。
ついさっきまで感じていた、あの追い詰められるような気持ちが薄くなっている気がする――。
「ねぇ、ソウスケ」
「ん、なに?」
「どうして、私が自殺しようとしていたことについて、何も聞かないの?」
「……えーと、何か聞いて欲しいとか?」
「そういうわけじゃないけれど……。変わってるなぁって」
「うん、まぁ自覚はあるよ。友達がいないから、そのせいかな」
ソウスケにお友達がいない。それは少し意外。話しやすいし、心も綺麗な感じがするのに。でも言われてみればたしかに、普通の人たちとは上手く付き合えない性格をしているのかも。そしてそれは、私もそう。
「そうなんだ。私も……。私も、お友達がいない」
「へぇ……それは意外だな。リカって有名なのに」
「それはたぶん、私が変わってるから。お友達とかは……いないよ」
「そっか。リカも孤独なんだ」
特に悲しみなどは浮かべないで、ソウスケがそう言う。まるで、孤独が当たり前であるかのように普通の表情。ソウスケには、感情とかがないのかな……。それはある意味、もっとも純粋なのかも。
「ねぇ、私…………ソウスケとお友達になりたい」
言い終わってから、少しドキドキする。自分からこんなことを言うのは、初めてかもしれない。もし断られたら、どうしよう。
「ダメ」
「えっな、なんでなんでなんで?」
「あ、いや……ウソウソ。もちろん、いいよ。ちょっと言ってみただけ」
「なんだ……。びっくりした」
思わず立ち上がってしまっていた。ソウスケが嘘なんてつくものだから、嬉しさよりも、よかったという安堵感でいっぱい。
「じゃ、これからよろしく、リカ」
「うん。こちらこそ。ソウスケ」
こうして私たちは、お友達になった。
◆ ◆ ◆
リカとは途中まで一緒に帰り、お互いの家への分岐点で別れた。次の学校――つまり月曜日に、また同じ時間に同じ場所で会う約束をした。屋上なので、雨が降っていたら傘をさして入るのだろうか。想像するとなんとなく、まぬけが気がする。
それにしても、近くで見るとリカはいっそう綺麗だった。整った顔立ちに、さらさらの黒い髪、透き通るような肌。僕よりも細い体は儚げで、その透明感のある様子はまさに美少女そのものだ。影のあるその独特な雰囲気は、心の純粋さや真剣さの表れであるように映る。
そういえば、なぜ自殺をしようとしていたのか聞かなかった。まぁ聞いたところで僕に解決できるとは思わないけど。
空気は赤に染まり、それをカラスがたたえる。右にも左にも家の塀、信号は欠席している田舎道である。正面は少し暗く、遠慮気味な風が木の葉をさらさらと鳴らす。
あたりに人影はない。ピンポンダッシュのチャンスだ。ためしに鳴らしてみると、……誰も出ない。走る手間がはぶけてラッキーである。
と、そんななことをやっているうちに、自分の家に着いた。玄関のドアは僕の手によって開かれ、主人を招き入れる。彼にはいつも家の警備を任せっきりだ。
中には誰もいない。僕しか住んでいないのだから、当たり前である。さっそく自分の部屋――まぁどこも自分の部屋なのであるが――に入ると、いつも通り静寂のお出迎えがあった。
さて、これからの暇な時間をどうするかがいつもの難題である。長く暮らしているせいで、この部屋には興味を引くものがなにもない。退屈密度がたぶん二百くらいあるのだ。二百というと、休日に降る雨音に匹敵する。もちろん、水溜りは完備である。水溜り一つ一つはそれぞれで世界になっていて、端っこは反対側の端っこにつながっているのだ。つまり、水溜りと風船はどちらも同じく限りがないと言えるかもしれない。しかし風船は閉じており、外側を歩くことが可能だ。それはルール違反であり、真ん中まで戻ってこなければいけない。なぜなら進むにつれて次第に狭くなっていくからで、途中に目印になるようなものはなにもなく、代わりに手紙を読むことができ、その内容に従わない場合は追い出されることはなく、逆に閉じ込められそうになるので、一度通った道をまた通ることは難しくなり、だんだんとあたりは暗くなっていき、夢が後ろから僕を追い……………………。
○ ○ ○
ソウスケとお友達になれたことで、私の心はとても満たされていた。
でも家の前に着いたとたんに、それは逆の気持ちで満たされる。
……今日は、両親が喧嘩をしているパターンの日だ。嫌な気持ちで一瞬、心が壊れそうになる。けれど、なんとかもちこたえる。
このパターンの日は、私に矛先が向きにくい――。上手くいけば平穏に過ごせるかも。でもそれよりも、矛先が私に向いたときが怖い。いつもよりひどくなりがちだから――。
静かにドアを開ける。そしてまた静かに閉める。これはもう、いつもの習慣。静かに靴を脱ぐ。静かに二階にある自分の部屋へと向かう。幸い、気づかれる様子はないみたい。自分の部屋に入る。鍵をかける。これで一安心。
今日ソウスケとお友達になれたことを、さっそく日記に書こう。ベッドにたくさん転がっているぬいぐるみの中から、クジラのエルをひざに乗せて、机に向かう。
「エル、今日は私、お友達ができたよ。ソウスケっていうの。怖くないよ、心の綺麗な人。今度エルにも紹介するね」
今日の日記は、普段の三日分くらいの量になった。エルが家に来たときよりも多い。日記を何回か読み返す――そのたび少しうれしい気持ちになる。
でも、それらは一瞬にして壊される――。
ドタドタと階段を上がる音――。
これは母親が来る音。
私に矛先が向いたんだ――。父親との喧嘩は終わったのかな……それとも継続中なのかな……。
あぁ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……。
もうすぐ来る、もうすぐ、もうすぐ……。
日記とエルを抱きしめて、心を守る準備をしなきゃ――。
ガチャガチャガチャガチャ!
ドアノブをいじる音がした。私の嫌いな音。
自分の心が暗く染まるのが見える――。
ドシン、ドシン!
足でドアを蹴る音が聞こえる。
怖い……怖い怖い怖い!
世界が音に支配される――。
母親から放たれる呪いの言葉――耳をふさいでそれに耐える。
でも心はふさげない。
なおも聞こえるドアを蹴る音。一回一回がゆっくりで重い。憎しみが込められている……。
早く……早く行って……お願いだから……。
エルがいなかったら、きっと私はとっくに壊れていた。
これからは、ソウスケとお友達になれたことで、もっと耐えられるのかな……。
……………………。
……どれくらい時間がたったのかな。いつの間にか、もうとっくに音は止んでいる。
喋っていた内容はよくわからなかったけれど、夕飯がないことは雰囲気でわかった。それですんでよかった。お風呂は、夜中にこっそり入ろう。
日記を先に書いておいて、本当によかった――。
◆ ◆ ◆
土曜日の朝がやってきた。午前の十時。もちろん何の予定もない。
コップ一杯の水が僕の一日を始める。ん……少し苦い。これは不健康な証拠だったかな。逆だったかも。
十時という時間のわりに、僕の家は少し薄暗い。窓の配置とか向きとかのせいだと思うけど、詳しいことはよくわからない。顔を洗いに行くのに、もっとも暗い洗面所へ行かなければならない。暗いのは好きじゃない、苦手だ。
洗面所へ向かう途中、窓の外に奇妙な風を聞いた。
洗面所には、大きな鏡が一枚置いてある。
僕が鏡の前に立つと、鏡の中の僕と向かい合う。
僕が右手を挙げると、鏡の中の僕も右手を上げる。
鏡の中の僕が蛇口をひねると、僕も蛇口をひねる。
鏡の中の僕が顔を洗えば、僕も顔を洗う。
こちらの風景は、鏡の中の風景とほとんど同じだ。たぶん鏡の中の世界と同じくらい、こちらの世界も広いのだろう。
「そっちの世界はどう?」
ためしに僕に話しかけてみた。しかし、同時に僕も、鏡の中の僕に話しかけてしまう。これではキリがない。僕もそう思っているようだ。
鏡の中の僕は顔を洗い終わり、廊下へと引き返す。僕もそれに続いて自分側の廊下へ引き返す。……少し疲れた。やっぱり暗いのは苦手だ。
「外にでも行こう」
そう思ったのは昼のちょうど十二時というところだった。一時間くらい、どうやって暇つぶしをするか考えていたが、ようやく結論が出た、というよりは単に飽きたのだ。
ということで今、僕は神社へと続く石の階段を登っている。別に神社に用事があるわけではないのだが、なんとなく思いついた行き先がここだった。田舎なので選択肢が少ないのだ。
ここの石段は非常に長く、たぶん数百段はあるので、まず誰も来ない。階段はずっとまっすぐで、草木がその両側を囲んでいる。下を見下ろすと、階段の一段目ははるかに遠く、自分の苦労を見ることができる。
……長い長い階段を登りきり、やっとのことで頂上に着く。思ったよりも神社は狭い。高い木々が周りを囲み、太陽の光をさえぎっているので、あたりは暗く、涼しい。
ところどころ欠けた飛び石を渡り、古びた賽銭箱の前に立つ。とりあえず大きな鈴をガランガランと鳴らしてみる。ついでにお賽銭も入れたいところだが、お金を持ってきていないのでそれは叶わない。
正式な作法などは知らないので、てきとうに、一歩下がって手をたたいて目をつぶって礼をする。お金を払ってないけど、一応何か願い事を言っておこう。
「退屈じゃなくなりますように」
○ ○ ○
お休みの日は、嫌い。
親の機嫌が悪くなりやすいから。家にいれば、何をされるかわからない。
なので、こうしてよく神社の石段に来る。ここはとても静かで、私のお気に入りの場所。私だけの、秘密の場所。ここにこうして座っていると、とても落ち着く。気持ちが安らぐ。
上には神社があるけれど、行ったことは一度だけ。とても不気味で、すごく怖い場所。小さい頃に行った記憶が強く残っているせいかも。
だからこうして、石段の途中に座る。いつも同じ、お気に入りのところ。ここは下から数えて四十七段目。
ソウスケは、今頃何をしているのかな――。
こうしていると、この世界に自分一人だけになっちゃったような感じがする。それが不安――でも、それを不安に思ったことは今までなかったのに。ソウスケというお友達ができたからなのかな。一人でいることが不安。
私の不安を映すように、空が曇ってきて、足元が影になってきた。冷たい風が吹く。曇りになっているのはここだけじゃ――ないよね……。
ガサガサ
なんだろう?急に斜め後ろで変な音がした。
不安になりながらも立ち上がって――振り向く。
そこには――何もない。
何もないなんて、おかしい――風とかじゃなくて、故意の音だったと思うのだけれど――。
私の幻聴?幽霊のしわざ?こんな昼間なのに?そう思うと、だんだん怖くなってきた。
でもなかなか、音がした方から目線がはずせない――。
怖いものだったら、どうしよう。
ここにいるのは、よくない――振り向いて、一目散に階段を下りよう。
そう心に決めて、振り向――
「キャアアア!」
目の前にだ、だれか……!
「今日はいい天気だね」
「え……?あ、え……?」
「おはよう、リカ」
「あ……あ、ソウ……スケ……?」
「ん、そのとおり」
「ソウスケ……はぁ……びっくりしたぁ……」
「あはは。ごめん」
ドキドキした。びっくりした。死んじゃうかもと思った。よかった、ソウスケでよかった。本当にびっくりした。心がうるさいくらいドキドキしてる。自分からあんな声が出ると思わなかった。
ちょっとお尻が痛い……私、尻餅をついてたんだ。
「あ、あれ……?」
「どした?もしかしてどこか痛めた?」
「ううん。違くて……力、入らない……上手く立てない……」
全身に力が入らない……。入れようとする思いは空回りして、体がついてこない。どうしても上手く立ち上がれない。
「あれ、そっか。じゃあ、とりあえず治るまで、ここに座ってよう」
「うん、そうする。……ところで、ソウスケ」
「なんだい?」
「どうして、女の子の服着てるの?」
◆ ◆ ◆
僕が女物の服を着ている理由――。
それは特になかった。ただの気まぐれである。ちなみに男物の服を着る日のほうが多い。
僕にはあまり男女の区別というものがなく、服も単に着たいものを着ているだけなのだ。実際、自分が男だとはあまり感じられない。かといって女だとも感じられないが。
というわけで今日はスカートなのだった。
「実は僕は女だからだよ」
ためしに言ってみる。嘘だとばれるだろうか。それともリカはだまされるだろうか。
「うそ、昨日は男子の制服だった」
うーむ、するどい。
「だって名前がソウスケだから、男だよ」
「名推理。さすがだね」
あっという間に降参である。
「でもソウスケ、それすごく似合ってる。そういう服着るのも、うなずけるかも」
「そうかな。リカのほうがずっと綺麗だよ」
実際、誰もが振り返る美少女という感じだ。服が黒いので、肌の白さが余計に際立つ。
「そう、かな……うれしい。ソウスケは、いつもそんな服なの?」
うんと答えたら、この先男物の服が着れなくなりそうだ。
「いや、今日はたまたまだよ」
先ほど少し曇っていた空は晴れてきて、どうやら雨になることはなさそうだ。光は射し、風は止み、鳥は飛び交う。
「足、立てるようになってきた。ほらみて」
「あ、ほんとだ。それじゃ、そろそろ行こうか」
と言っても、特に行く場所もないけど。
「…………嫌、ここがいい。ソウスケ、まだここにいて」
「ん、まぁ僕は構わないけど」
「どこかに行ったりしたら、絶対ダメ」
「…………」
「私、怖いの不安なの。ソウスケが一緒じゃないと嫌。一人でいると心が壊れそう。お願い、ここにいて」
すがるような――真剣な瞳でリカが言う。
リカはやはり、心が弱く感情の強い子だった。それは僕にとって、うらやましいとも思うし、うらやましくないとも思う。
「そっか。わかった、僕でよければ一緒にいるよ」
もともと予定なんてものはないし。それにここの石段は静かで、僕も嫌いじゃない。
そして、リカの様子も気になる。さっきの発言からして、何かに怯えている、あるいは苦しんでいるのではないだろうか。そういえば、昨日も自殺しようとしていたところに会ったんだっけ。
「ソウスケ……私、家族が怖い……」
「家族が?」
「いつも私にひどいことしてくる。世界で一番嫌い。いなくなっちゃえばいい」
自分の足元を見ながら、リカが暗い言葉を吐く。おそらくリカの本心なのだろう。
「ソウスケは、そんなことしないよね」
「もちろんだよ」
リカの状況がなんとなくわかってきた。おそらく家族の誰か、あるいは全員から虐待を受けていて、昨日はそれを苦に自殺を考えていたのだろう。となると、やはり自殺未遂は一回や二回ではなさそうだ。
うーむしかし、家族のいない僕にはあまりわからない話だ。僕は、自分が誰かから生まれてきたのだという感覚すらほとんどない。
「ふふ、ソウスケといると安心する」
そう言って、僕の袖を少し握ってくる。僕なんかが役に立つのなら、いくらでも使ってくれて構わない。
僕の場合はどうなのだろう。僕も、リカがいなくなれば心が壊れたりするのだろうか。うーむ、あまり想像がつかないが、なってみないとわからない。そもそも、壊れるほど心がない気もするけど。
――気がつくと、あたりは暗くなっていた。
リカと話していて、いつの間にか一日が終わってしまった。一人で過ごすよりも、誰かと話して過ごす方が時間は早く駆けていくようだ。
神社の石段という場所のせいもあってか、ほとんど真っ暗で、何も見えない。石段の境界もよく見えず、降りるときは僕らを転ばそうとしてくるだろう。時折、虫の声があたりの暗さをより際立たせる。
お互いの顔も、輪郭程度にしか映らない。しかし言葉だけは、その暗さを無視して相手に届くことができる。
「ソウスケ。私、今日ソウスケとお話できて嬉しかった」
「それはよかった。僕もリカと話せて楽しかったよ」
これは本当、のはず。
「ソウスケ、また明日も……明日もソウスケとお話していい?私、ソウスケと一緒にいたい。ううん、一緒じゃなきゃ嫌。私のお話できる人間は……ソウスケしかいないから」
僕は話せる人間どころか、関わりある人間がリカ一人だ。それはリカと比べて、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。おそらくリカは前者を答えるだろう。
「もちろんいいよ。それなら、また明日ここで会おう」
こうして、密度の高い今日の一日が終わった。
○ ○ ○
そこは地獄だった――。
いつものように入った、夜中のお風呂。
今日は偶然、母親が起きてしまった。
蹴られる扉、消される電気――。でも、お風呂にも鍵がある。
それで、終わったと思った。
思ったのに――。
部屋に戻ると、地獄が用意されていた。
私の大好きなルルステが――
私の大好きだった、ネコのルルステが――!
壊されていた。殺されていた。
首から真っ二つに引き裂かれて、傷口からは綿があふれている。
私が、私が鍵をかけてお風呂なんかに入っていたから!
だから標的がルルステに移って、そして無残に壊された。
ぬいぐるみに抵抗なんてできない。ルルステは首を引きちぎられるその瞬間も、無抵抗に、表情すら変えずに、されるがままに殺されたんだ――。
その純粋な目で、自分の世界が終わる光景を見ながら――。
首と体が離れてしまった今でも、ルルステの表情は私の知っている以前のそれとまったく変わらない。
ルルステは今、その壊れた瞳で何を見ているのだろう。
もし私がお風呂に入らなかったら――!
もし私が素直にお風呂の鍵を開けていたら――!
ルルステは殺されずにすんだんだ。
私のせいで、私のせいでルルステは死んだんだ!
これくらい、少し考えれば簡単に予想できたことなのに!!
私が、自分を守ることばかり考えていたから!
自分のことばかり考えていたから!
あああああああああああああああああああああああああ!!!!!
なんで、なんで私を殺してくれなかったの!
こんなの、こんなの耐えられない!
視界が歪む、光を失う、心が砕ける――
助けて――助けて、ソウスケ――。
こんなの私、耐えられない――あなたがいないと、狂ってしまう、壊れてしまう。
ルルステ……私の大好きなルルステ……。
どんなに涙が零れようとも、ルルステは生き返らない。
ここは童話の世界じゃない。魔法の世界でもない。これが、現実なんだ。
全身の力が抜け、心がうなだれる。
ルルステ……ごめんね……ごめんね。
私もいつかきっと、そっちの世界に行くから――
だからそれまで、待っていてね――。
◆ ◆ ◆
僕は、間違いを犯した――。
と、かっこよさそうに言ってみたが、ようは会う時間を約束し忘れたということである。
おかげで待ちくたびれて、暇をもてあましている。今日同じ場所でと約束したものの時間を決めてなかったなんて、なんだかまぬけだ。
日曜日だというのに、太陽は休みなく働いているようで、逆に雲は仕事をさぼっている。相変わらずこの石段には誰も来ない。石段のふもとの道路をたまに誰かが横切る程度だ。ちなみに、道路は石段から見て右から左へ少し急な下り坂になっている。
とりあえずお昼前に来てみたものの、リカの姿はまだ見えない。あ――もしかして昨日と同じ時間に来るつもりなのかもしれない。そう考えるのが普通だろう。だとしたら少し早く来すぎてしまったようだ。
それまでここで待っていようか、どこかで時間をつぶしていようか悩む。どこかに行くなら、せっかく登った石段を降りなければならず、少し面倒くさい。一気に降りる方法はないだろうか――。
いや、ある。足で一歩一歩進むから遅いのであって、ごろごろと転がっていけばたぶんすぐに降りられるはずだ。もしかすると痛いかもしれないし、そうでないかもしれない。
――とりあえず、試してみる。ひとつ下の段に向かって軽く前転。なんだか体が空中に浮かんでしまった感じがするな。と思った瞬間、全身を石段にぶつけ、体の背面を耐え難い激痛が襲う。前転中に少し体が左にそれたようで、左わき腹を強打する。その勢いで体全体が横倒しになり、その勢いのまま横向きに転がりだす。
ものすごく密度の高い時間が流れ出す。まず始めに後頭部を強打し、信じられないほどの激痛が僕を襲う。そのせいで方向感覚がまるでわからなくなり、自分の体のこと以外に何も考えられなくなる。視界がめまぐるしく回り、空と草木がらせん状に融合したような景色が見える。とりあえず、後頭部を守るため限界まで顎を引く。
体の前面と背面を交互に打ちつける。前面を打つときは腕で体をかばうものの、石段一つ一つが滑らかでなく、ざらざらしているため非常に痛い。背面を打つときはとても息苦しく、内臓がかきまわされている感じがする。特に頭を打たないよう注意する。
だんだん勢いが失われてきて、そろそろ止まってくれそうだ。もう少しで、痛みと酔いが限界を超えて、意識を失ってしまうかもしれないところだった。最初の前転のとき、もっと勢いをつけていたら本当に危険だったかもしれない。
やがて、長い長い時間を経て、ようやく仰向けの状態で停止する。未だに景色がぐにゃぐにゃと回っているが、そのうち止まるだろう。それよりも、やはり最初に打った後頭部の痛みが問題だ。少しでも動かせば激痛が走る。
なので、しばらくこの状態のまま寝ていることにする。どうせこの石段にはめったに人が来ないので、見られることはないだろう。リカが来るだろう時間にもまだ余裕があり、その頃にはたぶん回復しているはずだ。体中がところどころ痛いものの、目立つ外傷も出血も少なそうなのは助かった。
青い空と輝く太陽が僕を見下ろす。僕の行動を遠く見ていた彼らは、その広大な心で一体何を思うのだろうか。木の葉を揺らすその風は、一体僕に何を伝えようとしてい――
「ソウスケ、どうしたの――!?」
……リカの視界に、僕が映った。
○ ○ ○
「ソウスケ、ねぇ、大丈夫!?」
楽しみにしていたソウスケとの約束。ちょっと早いかなと思ってきてみたら、そこには信じられない光景が広がっていた。
もうソウスケは来ていて、そして倒れているのだから――。
「ソウスケ、何があったの?ねぇ、返事をして――目を開けて――!」
呼びかけても、揺さぶっても、ぜんぜん反応がない。
それはまるで、私の声が届いていないかのように。
頭の中に昨日のルルステの姿が浮かぶ――。
その姿が、今のソウスケの姿に重なる――。
嘘だ…………
ソウスケまで死んじゃうなんて、そんなの嘘だ…………
ソウスケがいなくなったら、私は生きていけない。
嘘だ、嘘だ……!
そんなの嫌……ソウスケが死んじゃうなんて、そんなの絶対に嫌……!
景色が真っ暗に染まってゆく。
心が絶望の色で塗りつぶされる。
……これも、私のせい……?
私がもっと早くに来ていれば――
ソウスケを、助けられたかもしれない。
私が――
私がソウスケを殺したんだ――
「ソウスケ、ソウスケ……いやあああああああああ!」
「おはよう、リカ」
「ソウ――え……?」
「今日もいい天気だね」
「あ…………」
あれ、どういうこと?ソウスケは生きてる?私に話しかけて……ソウスケはなんともないの?
あ、そうか、ソウスケのいつものイタズラ――また私ひっかかっちゃったんだ。
「ひどい、ソウスケ!本当に、本当に心配した!死んじゃったのかと思って……怖くて、怖くて……」
「あはは、ごめん。そんなに驚くと思わなくて」
本当に、心が張り裂けそうだった。あのままソウスケが起きなかったら……きっと私は死を選んでいた。
「でも、よかった。ソウスケがなんともなくて。すごく、安心した」
「ごめん、心配かけちゃったみたいだね」
本当に心配したけれど、ソウスケが無事ならそれでよかった。心がホッとする。
なんだか、ソウスケと会うと、憂鬱な気持ちとかすぐにどこかに飛んでいっちゃうな。ここに来るまでは、昨日のことでずっと心は真っ暗闇だったのに。ソウスケは、いつも私を助けてくれる。
やっぱり私、ソウスケのことが好き――。
「ソウスケ、今日もお話しよう?今日が終わるまで、ここでずっと。二人っきりで」
「……うん、わかった。でもせっかくだから、ここじゃなくて――」
「昨日と同じ段?」
「いや、そうじゃなくて、上の神社にでも行かない?」
「神社……」
「あれ、神社は嫌い?」
「ううん。ソウスケと一緒なら、怖いところなんてないよ」
「よし、じゃあ行こうか。ちょっと大変だけど」
「うん!」
ソウスケと一緒にいられれば、私はそれでいい。ソウスケと一緒にいると、心が満たされる。こんな感情、ソウスケと会うまではまったくなかった。ソウスケは、私を救ってくれるんだ。
この幸せが、ずっと続けばいいな――
そう思いながら、私はソウスケと一緒に石段を登り始める。
ソウスケ、あなたのすべてをちょうだい――私のすべてをあげるから――。
◆ ◆ ◆
「やっと、着いた……結構疲れるね……リカ、大丈夫?」
「私は、だい、じょうぶ……」
口ではそう言うものの、肩で息をしており、見た目にも疲れている様子がわかる。僕もかなり体力のない方であるが、リカはそれ以上だろう。リカには少し重労働だったかもしれない。
「静かなところ……少し、不気味……」
一通り周りを見渡しながら、リカがポツリと言う。不気味、ね……まぁわからなくもない。立派な建物はあるのに、人の気配がなく、聞こえるのはただ静寂。人のない人工物というのはそれだけで不自然なのだ。
「リカも何か願い事してみたら?」
「…………嫌。私は、自分のお願い事は自分で叶える。神様とか、信じてない……」
一瞬、賽銭箱のほうを見たものの、すぐに僕のほうに振り返る。その考え方は、リカらしいと言えばリカらしい。僕もずっと一人で、人に頼るということをほとんど知らずに生きてきたので、なんとなく理解できる。リカと僕の違いは、リカには叶えたい望みがたしかにあって、僕には特にそれがないということだ。
「それに、私のお願い事、もう半分くらい叶っているもの」
「そうなんだ。……そういえば、僕も半分くらい叶っている気がするな」
まぁ、お金も払ってないし、てきとうに言った願い事だけど。神様は意外と、真剣でない人の望みを叶えるのだろうか。いや、気まぐれなだけか。
「ここにいると、この世界に私たち二人だけになっちゃったような気がするね」
周りを取り囲む高い木々からもれる太陽の光。それらの木々を揺らすことで、姿は見せなくても音を聞かせる涼やかな風たち。自然がつむぐこの空間は、普段暮らしている世界とは切り離された場所のようで、たしかに非日常の感覚を僕らに与えてくれる。
「そうだね……今なら誰も見てないし、思いっきり遊ぼうか」
「じゃあ私、かくれんぼがしたい」
「いいけど、なんでかくれんぼ?」
「だって、二人いないとできないから」
「なるほど」
つまりはリカも僕も、かくれんぼ初体験というわけだ。とはいえ、たいていの遊びは一人ではできないので、お互いほとんどの遊びをやったことがないはず。遊びとは、相手がいるから生じるものなのかもしれない。
「ソウスケが鬼ねっ。私隠れてくるから、百数えて!」
「いーち、にーい、よーん……」
「わ、わ、もっとゆっくり!」
かくれんぼが始まった。リカは慌てて神社の裏のほうに走っていき、すぐに見えなくなる。ここはそんなに広くないので、すぐに見つかってしまうのではないだろうか。いや、リカは体が細いから、思いがけないところに隠れるかもしれない。
「きゅうじゅうく、ひゃーく」
さて、リカを探さなければ。
いや、ここはあえて、鬼の僕が隠れてみてはどうだろう。たぶんルール違反にはならないはずだ。
ということで、隠れてみることにする。社へと続く、階段の下へ。少し狭いが、木の板にお尻をのせて、階段の裏側を見るように体育座りをしていれば長時間もちそうだ。
……僕が百まで数え終わってから、ずっと静寂が支配している。誰も見つけようとしていないのに、お互いが隠れているというまぬけな状況。この社の神様は、自分の前後に隠れる少年少女を見て、一体何を思うだろうか。
……しばらくすると、ガサガサと音が聞こえ始めた。リカの動く音だろう。ふと横を見ると、リカの足がかすかに見える。どうやら僕がいないことに気づいて、歩き回り始めたようだ。今がチャンス。そろそろ出て行こう。
「ソウスケ、ソウスケどこ!?いなくなっちゃやだ!怖い、怖いよ……!」
「みーつけた!」
ポンとリカの肩に手を乗せる。
「ソウスケ!」
「リカの負けだね」
「あ…………ず、ずるい!ソウスケずるい!せっかく私、絶対見つからないところに隠れてたのに」
「あはは、ごめん。かくれんぼって初めてだからよくわからなくてさ」
「もう……」
「でも、楽しかったよ」
「うん……ねぇ、ソウスケ」
「なに?」
「私、今すごく幸せ。こんなに楽しい時間、生まれて初めて」
「それはよかった」
「ずっとずっと、こんな幸せな時間が続いていけばいいな」
その願いも、けっして神頼みにすることなく、リカは自分で叶えようとするのだろう。
僕たちは暗くなるまで、この狭い神社で、いろいろな遊びを次々に試していった――。
○ ○ ○
『今日は最高の一日だった。
前は怖かった石段の上の神社。今日からは、私とソウスケだけの特別の場所。
ソウスケと遊んだかくれんぼ。ソウスケと遊んだおにごっこ。ソウスケと遊んだだるまさんがころんだ。どれもこれもぜんぶすごく楽しかった。
かくれんぼをしたときのソウスケは――』
日記を書く手が止まらない。気持ちが先走って、手がそれについてこれないのがもどかしい。
ドアのほうでうるさい音がするけれど、そんなのちっとも気にならない。今はとにかく日記が書きたい。日記を書いていないと、この高ぶる気持ちの行く宛がなくて、どうしていいかわからない。
『ソウスケはずっと優しかった。かくれんぼで私が負けたときも。おにごっこでへとへとになっちゃったときも。ずっとずっと私に優しくしてくれた。ソウスケは、私だけを見ていてくれる。私だけに優しくしてくれる――』
このまま、今日の分でノートが終わっちゃうのじゃないかと思うくらい、たくさんたくさん書き続ける。ひざに乗せているエルも、私の気持ちが伝わっているのか、どこか嬉しそう。
『ソウスケと遊んでいるとき、すごくすごく幸せだった。ソウスケのことを考えているだけでも楽しい。私とソウスケはきっと、運命の二人なんだね。ソウスケもそう思っているよね。ソウスケ、好きだよ。すごくすごく好き。どうしたらこの思い、伝えきれるかな。ソウスケとまた二人きりになりたいな。他のものはぜんぶいらない。ソウスケと二人だけの世界に行きたいな』
気がつくと、もう一時間以上、日記を書いていた。まだまだ書きたいことはあるけれど、気持ちをノートに書き下ろしているうちに、少しずつ心も落ち着いてきた。
日記を読み返す。幸せな気持ちになる。もう一度読み返す。幸せな気持ちになる。もう一度読み返す。幸せな気持ちになる。
うん、今日はこの辺で、終わりにしよう。一日にあんまり書きすぎたら、日記じゃなくなっちゃう。
ペンたてにシャープペンシルを戻そうとして、気づく。あれ、これカッターだ。あはは、失敗失敗。気持ちばかりが先回りして、今までシャープペンシルを握っていたと思ったのに、ずっとカッターを握っていたなんて。ちょっと恥ずかしい。
ソウスケに、会いたいな――。
私はソウスケに会いたいし、ソウスケは私に会いたい。なのに、なんで私はこんなところにいるのだろう。こんなの、絶対におかしいよね。
うん、ソウスケに会いに行こう。わざわざ嫌いな人間と一緒にいる必要なんてないんだ。好きな人と一緒にいたいと思うのが、普通だもの。
ソウスケの家は、最初に会った日にだいたい教えてもらった。うん、問題なく行けるはず。こんなに遅くなってから外に出るのは初めてでドキドキするけれど。ソウスケと会ってからは、初めてのことばっかり。それがすごく楽しい。
私はバッグに必要なものを準備して、ソウスケの家に向かった――。
◆ ◆ ◆
不思議な音がした。
それは僕の家の玄関の扉を開ける音であり、不思議どころか聞きなれた音であるのだが、状況によってその音が意味することは違うのである。
つまり、今僕は自分の部屋にいて、ということは他の誰かが、僕しか住んでいないこの家の玄関の扉を開けたということだ。それも、この夜中に。
泥棒さんだったら申し訳ないが、この家に価値のあるものなどほとんどない。貴重品は基本的にこの部屋に置いてあるので大丈夫。強盗さんだったら……物理的に危害を加えて、強引に取っていくかもしれないけど。
気になったので、とりあえず見に行ってみることにする。そういえば、玄関の鍵はかけてなかったかもしれない。日ごろから防犯意識はまったくなかった。
部屋を出て、一階へ。おや、普通に明かりがついている。と思ったらそこにはリカが立っていた。
「あぁ、リカだったんだ。こんな夜中に、どうしたの?」
「ごめんね、ソウスケ。ノックしたのだけれど……ぜんぜん反応がなくて。扉開けてみたら開いちゃって」
「あぁ、呼び鈴がないからね……」
考えてみれば、なんとも無警戒な家である。呼び鈴もつけず、鍵もないなら、勝手に入ってくださいと言っているようなものだ。
「ソウスケに会いたくて、来ちゃった。あんな家もう嫌。あそこにいたら、私おかしくなっちゃう。今日、ソウスケの家に泊まりたい」
「ん、まぁ僕は構わないけど……」
そんなことして、リカは大丈夫なのだろうか。余計に家族の風当たりが強くなりそうな気がするけど。
「よかった!これでまた一緒にいられるね」
――いつもならもうとっくに寝ている時間を過ぎた。しかしそれでもあまり眠くなく、まだ十分に起きていられる。僕とリカはさっきからずっと、二人でベッドに腰掛け、ただ単に話をし続けている。
僕の部屋に自分以外の人がいると、なんだか違和感がある。なんとなく、部屋の雰囲気まで変わっている感じだ。これが美少女の効果なのだろうか。
「ソウスケ。私、ソウスケのこと大好きだよ」
「僕もリカのこと好きだよ」
「世界で一番好き。ソウスケは、私のすべて。ソウスケ以外の人間はみんな大っ嫌い。この世界には、ソウスケと私の二人だけでいい」
落ち着いた、綺麗な声でリカが言う。
僕はリカ以外には好きな人間もいなければ嫌いな人間もいない。ということは僕も、リカ以外の人間は必要ないことになるのだろうか。
「ねぇソウスケ。私たち、私とソウスケだけの、二人だけの世界に行こう?」
「二人だけの世界?」
「そう。邪魔な生き物はひとつもいなくて、私とソウスケだけしかいない世界」
「うーん、人間なんてどこにでもいるけど……どうやって行くの?」
「心で行くの」
「心で?」
「うん。二人だけの世界は心の世界。心が私たちの存在しか認めなければ、それは実際に私たち二人だけしかいないということなの。これからは私たちの心は二人だけの世界にあって、私とソウスケの心はそこで永遠につながっているの」
なんとなく、理屈はわかったような気がする。しかし、果たしてそれは上手くいくのだろうか。
……リカならきっと、上手くやるのだろう。その疑いのない、純粋な瞳がそう物語っている。つまり、僕が理解して適応すればいいということだ。
「でもさ、いくら二人だけの世界に心があっても、誰かに物理的に接触されたら……さすがにそれを否定することはできないんじゃない?」
「大丈夫。私たちの世界は誰にも邪魔させないよ」
そう言ってリカはベッドを降りて、自分のバッグをあさり始める。僕も使っている、学校指定の青いバッグだ。
「なんとなく、ナイフが出てくるような気がするな」
「え、すごい!なんでわかったの?」
と驚きながらも少し残念そうに、ナイフを取り出す。なんでわかったんだろう。自分でも驚きだ。
「ソウスケもやっぱり、同じ気持ちなんだね。大丈夫。心の世界は、絶対誰にも邪魔させない」
リカという一人の人間の中に、いったいどれほどの感情が詰まっているのだろう。その半分を僕が受け持てば、ちょうどいいのかもしれない。
「なるほど……わかったよ。一緒に、二人だけの世界へ行こう」
どうせ退屈だったんだ。これからは、僕のすべては、リカのために使って生きていこう。
「ありがとう!嬉しい!」
そう言ってリカが抱きついてくる。一瞬ナイフが目の前を通り過ぎたけど、幸いどちらにあたることもなかった。このナイフはいずれ、誰かに向けられたりするのだろうか。
二人だけの世界――それはどんな世界なのだろうか。この世界と比べて、何があって、何がないのだろう。そこに行くには、何を失い、何を手に入れる必要があるのだろう。そんなことを考えながら、僕は眠りについた――。
○ ○ ○
私はいつの間にか道路の真ん中に立っていた。着ているのはいつもの黒い制服。デザインや雰囲気が私の好みで、とても気に入っている。
あたりに人気はまったくなく、音もしない。世界が止まっている感じがする。でも、それも当たり前か。
少し歩くと、コンビニが見えてきた。他はモノクロ写真のように暗いのに、このコンビニだけは明るく光っている。特に目的はないけれど、行かなきゃいけないような気がしたので、入ることにした。
入ってみると、真っ暗だった。電気をつけなきゃ。と思っていたら、だんだん明るくなってきた。そっか、自動で電気がつくシステムだったんだ。
中は思ったよりもずっと広く、本の香りが漂っている。コンビニだと思って入ったけれど、ここは図書館だったんだ。
受付には二体の人形が立っている。この図書館は初めてだから、図書カードを作らなきゃ。と思ったけれど、やっぱりある程度見回ってからにしよう。借りるときに作ればいいのだし。
図書館を見回すと、奥行きがとても長いことに気がついた。向こう側の壁が見えなくて、どうなってるのかわからない。こんなに広い図書館があったなんて。私はちょっとわくわくした。
奥のほうに歩いていくにつれて、本棚が少なくなっていく。ベンチばかりになっていって、それでもまだ奥に続いてる。本棚をちらちらと見ながら歩いているけれど、外国語の本ばかりで、私には読めそうにない。それにしても、私のほかに利用者はいないのかな?こんなにベンチがあっても意味がない気がした。
……と、突然、視界が開けた。目の前に足場はなく、見下ろすと地面は遥か視線の先。ここは……学校の屋上だ。もう少しで、そのまま歩いて落っこちちゃうところだった。こんなところに続いているなんて、あまりに危険すぎると思う。
――そのとき、強風が吹いた。油断していた私は、バランスを崩して足を踏み外してしまう。しまった、と思ってももう遅く、もう絶対に助からないという感覚が全身を襲う。
不思議と冷静に、自分の落ちてゆく先を見つめると、私の少し先にはソウスケがいた。私と同じように、落ちている最中。ソウスケに追いつかなきゃ。そう念じると、落ちるスピードが少し早くなり、少しずつソウスケに近づいていった。
そして、落ちてゆくにつれて、世界がだんだんと傾きだした。重力の方向がちょっとずつ変化している。このままいくと、後ろが空に、前が地面に、下が校舎の側面になりそう。そうなったら、ソウスケも私も、助かるかもしれない。
ちょうど九十度、世界が傾き終わり、実際そのとおりになった。私は勢いで校舎の窓の上に転ぶ。ソウスケは上手く立って、そのまま当然のように歩き出した。
待って、待ってよソウスケ――どこに行くの?私もつれていって。置いていかないで――。
◆ ◆ ◆
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
月曜日の朝。今日からまた、学校が始まる。
リカと手をつないで、玄関を出る。今まで、誰かと一緒に登校したことはなかった。やがてはこれも、日常になるのだろうか。
細い手足を動かし、長い黒髪を揺らして歩くそのリカの姿は、まるで芸術品のようだ。
「そういえば、昨日は僕の家に泊まったけど、リカは大丈夫?家族のこととか」
「誰、それ?この世界にそんなのない。私たち以外の人間の話、しないで」
「ごめん、そうだったね。ここは二人だけの世界だった」
リカの瞳には迷いがなく、そしてその声には揺るぎがない。リカはもうすでに、二人だけの世界を実行しているようだ。僕もそれに続かなくてはいけない。おそらくこれは、二人でやらないとできないことだろうから。
「ううん、私こそごめんなさい。ソウスケは私のこと心配してくれたんだよね。私、嬉しい」
相変わらず真剣な表情で、リカが言う。あまりに素直なその言葉は、まるでリカの心を直接僕に見せているようだ。
それにしても、こうして手をつないで歩いていると、自然と多くの視線が僕らに突き刺す。リカのその美少女ぶりもそれに拍車をかけているのだろう。しかしリカはまったく気にしていないようだけど。それもそうか、リカの世界に彼らは存在していないのだろうから。
――やがて、学校に着いた。少し狭い校門を抜け、僕らの学年の校舎へ向かう。相変わらず、全体的にモノクロな校舎だ。
僕とリカのクラスは違うので、ここでいったん別れなければならない。
「ソウスケと別れるの、嫌。一緒に授業受けたりできないの?」
「仕方ないよ。そう決められているから」
「そう…………残念。だけど、我慢する。お昼は一緒に食べよう?」
「わかった。約束するよ」
そう言って、僕らはそれぞれ自分のクラスへと向かった。
――授業は退屈だ。黒板にずらずらと並ぶ数式はまったく理解できないので、窓の外を見ることにする。リカなら僕と違って、数学くらい簡単にやってみせてしまいそうだ。勉強のできるできないというのは、単に性格の違いなのかもしれない。
外を眺めているとちょうど、学校のそばを走る線路を電車が通り抜けた。ここの教室は校舎の最上階なので、僕からは電車の上面が見える。電車に乗っている人たちには、決してそれは見えないだろう。それを見るには彼らは近すぎるのだ。
グラウンドは静まり返っていて、サッカーゴールが寂しそうに佇んでいる。その近くにある学校の旗も、やる気が出ないのかうなだれている。まるで外の世界だけ時間が止まっているようだ。電車が通ることで、また時間は流れだす。
そしてこちら側の世界も急な勢いで流れ出した。
「ソウスケ、よかった、いた!」
もちろん授業の真っ最中である。教師も生徒もみんな、何事かと呆然としている。しかし当の本人であるリカは、それらをまったく気にかけずに僕の元へと歩いてくる。
「えへへ、会いたくなって、来ちゃった!」
「そっか…………」
リカの世界には僕しかいないのだから、授業も何かの義務程度にしか思ってないのだろう。だからそれを破っても、特になんとも思わないのだ。
さて、どうするか。
「ソウスケ、数学のお勉強してたんだ。私が教えてあげるね!」
「はは……ありがとう。それじゃ、図書室に行こうか。本といえば勉強、勉強といえば図書室、図書室といえば本だよね」
「……?」
さて、この隙にリカをつれて僕らはさっさと退散するとしよう。後で何か言われるだろうが、てきとうに僕のせいにしておけば何とかなるだろう。
しかし、その前に教師が僕らの元へやってきた。
そして、リカの肩に手を置く。
リカはそれを一瞥すると、もっているバッグの中に左手を突っ込む。
そこからナイフを取り出し、何のためらいもなく教師に向かって――
ぐっ――。
すんでのところで、僕はナイフを握ってそれを止めた。左手が裂けるように痛い。いや、確実に裂けている。血が流れる感覚――しかし零してはいけない。痛いが、力を込めて血を零さないようにする。
教師が気づいていないようなので、まだ誰もナイフの存在に気づいてないだろう。しかし少しでも不自然にすれば、少しでも痛みに声を上げれば、すぐにばれてしまう。
「あ……あ……ソウ、スケ……!ソウスケ!」
まずい。早くここから出ないと。
「ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!私、私、私、そんな……、そんなつもりじゃ……あ……あ、あ……」
「大丈夫、僕は大丈夫だ。とりあえず、廊下に行こう。ここはよくないから。リカと二人きりになりたいな」
そのまま、左手でナイフ、右手でリカの手首を持ち、リカと体を密着させながら無理やり教室を出る。幸い、みんな呆然としているようで、誰も追ってこないようだ。何とか騒ぎにならずに済んだ。それにしてもリカの体は軽い。力が抜けているのかもしれない。
「ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……ごめんなさい、ソウスケ……」
歩いている間中、リカはずっと謝りの言葉を述べている。
「いや、たいした傷じゃないから、大丈夫だよ」
それにしても、あの勢いのナイフをよくこの程度の怪我で止められたものだ。人間、緊急時にはかなりの集中力が発揮されるようだ。もう一度やれと言われても、絶対できないだろう。
さて、ここまでくれば、とりあえず大丈夫だ。教室の階から二つ降りて、普段人の来ない空き教室の前へと来た。
「ソウスケ、保健室に行かないと……血が、血が……」
「いや、保健室はまずいかな…………」
「でも、手から血が……私のせいで……早く、手当てしないと……!」
「リカのせいじゃないよ。僕はリカの邪魔をしたんだ。僕こそ、ごめん」
「病院、病院に行かないと!」
「病院ね……そうしよう。リカは、荷物はそのバッグでぜんぶだよね?今日はもう早退して、家に帰るんだ、いいね?」
「私も、私もソウスケと一緒に病院に行く!」
「いや、僕はぜんぜん平気だよ。大丈夫だ」
「でも――」
「一緒に病院に行くと、きっとまた二人だけの世界を邪魔されるんだ。だから、いったん、ここで別れよう。僕も二人だけの世界を守りたいんだ」
「う……うん、わかった。ソウスケが、そう言うなら……」
「よし、いい子だ」
「ソウスケ、無事で戻ってきてね」
――病院に行くというのは嘘だ。それほどの傷じゃない。僕には一人で考えたいことがあった。
ということで屋上へ向かう。実際、手の傷はそんなにたいした傷じゃない。
――誰に会うこともなく、屋上へたどり着く。
――僕は、リカの心をちゃんとわかっているのだろうか――
ここから飛び降りようとしていたリカの思い。石段で不安に押しつぶされそうになっていたリカの思い。夜中にもかかわらず僕の家を訪れてきたリカの思い。授業中であることをまったく気に留めずに僕に会いに来たリカの思い。ためらいなく僕以外の邪魔者を排除しようとしたリカの思い。そして、二人だけの世界を提案してきたリカの思い――。
それらを僕は、本当に理解しているのだろうか。
リカの言葉を、一つ一つ聞いてきた。
リカのために、僕のすべてを使おうと思った。
リカの二人だけの世界に、僕も行くと約束した。
でも、ならなぜ――
僕はリカを止めたんだ?
○ ○ ○
雨の音が心に痛い――。
それは心の空洞に溜まっていくように。
今までずっと晴れだった分、これからしばらくは雨や曇りが続くみたい。
なんだか私の状況を映しているみたいで、とても不安になる。
――昨日は、失敗しちゃったな――。
ソウスケを、傷つけてしまった。
そんなこと、絶対にあってはいけないのに――。
それもこれもぜんぶ、あの邪魔物が悪い。
邪魔さえ入らなければ、ソウスケを傷つけてしまうこともなく、もっとたくさんソウスケと一緒に過ごせたのに。
なんで、ソウスケ以外の物はみんな、私にひどいことをするのかな。
私はソウスケと一緒にいたいだけなのに。
私とソウスケとで世界は完全に閉じているのに、なんでわざわざ邪魔をしてくるのだろう?
わからない。
みんな死んじゃえばいいのに。
――そんなことを考えていると、いつの間にか校門まで来ていた。
なんだか周りが騒がしい。でも、二人だけの世界にはそんなのもう関係ない。
すぐにソウスケの教室に向かう。――まだ、来てないみたい。すぐに会えると思ったのに残念。
――しばらく待っているけれど、ソウスケは来ない。――やがて、予鈴が鳴る。もうすぐ授業が始まってしまうけれど……どうしたのだろう……遅刻かな?
授業が始まる前に、自分の教室に戻らなくちゃ。昨日みたいなことは起こしたくないから。
本鈴が鳴ったというのに、授業は始まらない。あ、そうか、今日は一時間目がないんだ。ソウスケのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れちゃってた。
やがて二時間目になると、うるさい物が教室に集まってきて、授業が始まった。二時間目が終わったら、ソウスケの教室に行こう。今度はちゃんといるはず。
――やがて二時間目が終わって、ソウスケの教室に行く。ソウスケは…………いない。お手洗い……かな?しばらく待ってみよう。
……もうすぐ三時間目が始まる。なのに、ソウスケは来ない。おかしいな……寝坊しているのかな……。それとももしかして、何か悪い病気にかかっていたりして、学校に来られないのかも……!
学校なんかにいる場合じゃない。ソウスケが学校に来られないのなら、私がソウスケのところに行かなきゃ。急いで自分の教室に戻って、バッグを取り、昨日と同じように早退する。
「ソウスケ、待っててね。今行くから――」
――心は焦りながら、気持ちは不安になりながら、やっとのことで、ソウスケの家の玄関の前まで来る。あたりは雨の音しか聞こえなくて、なんとなく、嫌な予感がする。
「ソウスケ、いる!?」
ノックをしても、呼びかけてみても、返事がない。
怖い――。
ソウスケに何か、よくないことが起こっているのだと思うと――。
不安の塊が心を食い破って、頭がおかしくなりそう――!
「ごめんねソウスケ、開けるよ!」
前と同じように、玄関の扉には鍵がかかっていなかった。
ソウスケの、お部屋へ――!
そこには――
ソウスケはいなかった。
他の場所も探してみたけれど、どこにもソウスケはいない。
音のない家が、ソウスケがいないことを私に伝えているみたいで、それが私の心を不安定にさせる――。
嘘だ――
ソウスケはいなくなったりしない。
私はソウスケが好き。
ソウスケは私が好き。
二人はずっと一緒にいるのだもの。
――そうだ、もうソウスケは学校に登校した後で、きっと私と入れ違いになったんだ。うん、そうに決まってる。
だから、今度は学校に戻らなきゃ。急い、で。
なんだろう。雨のせいかな――少し頭がふらふらする。
とにかく、すぐに学校に行かなきゃ――。
だって、そこにソウスケがいるのだから。
私のいるべき場所は、ソウスケのいる場所なのだから。
同じ道を、今度は逆に向かう。
ずっと続いている雨の音は、私の心境にぴったりな気がする。
ソウスケ、私、今行くからね。
私が好きなのはあなただけだから。
この二人だけの世界には、私のほかに、あなたしかいないのだから。
――学校に着くと、ちょうどお昼休みの時間だった。
ちょうどよかった、すぐにソウスケの教室に向かう。
きっとそこに、ソウスケがいるはず――。
少し騒がしいソウスケの教室。窓際のソウスケの席まで行く。
でも、私の視界には――
ソウスケは映らなかった。
○ ○ ○
ソウスケが、いない――。
世界が黒く染まる。歪む。壊れる。
ソウスケがいない世界なんて、まったくの無意味。
ソウスケは私にとってすべてなのだから。
そんな世界、いらない。
壊れちゃえばいい。
消えちゃえばいい。
死んじゃえばいい。
世界を壊す方法は、とっても簡単。
――空を一歩、歩くだけ。
ソウスケがいないのなら、迷わず空を歩こう。
あとひとつ、試してみて――
それでもソウスケがいなかったら――
こんな世界とはお別れしよう。
そして、心の世界だけで生きるんだ。
ずっと一緒で――
なにも心配することなく――
永遠に。
――見慣れた屋上、緑のフェンス、冷たい雨。
何度目だろう、このフェンスを越えるのは。
狭い足場。
一歩でも踏み出せば――少しでもバランスを崩せば――
それは世界の終わり。
そして自分の終わり。
――ソウスケは、いつも私を助けてくれた。
初めて出会ったとき――
振り向いたら、そこにソウスケがいた。
だからきっと――
振り向けばソウスケがいるはず――。
――でも、もしいなかったら?
もしいなかったら……
あぁ怖い怖い怖い怖い怖い!
怖くて怖くて振り向けない!
恐怖が心に収まりきらなくて、破裂してしまいそう!
いっそのこと、そうなっちゃえばいいのに!
それでも、体を壊すのは自分でやらなきゃいけない!
心が壊れるだけじゃ、だめ――。
もし、何かが私にひどいことをしているのなら――
お願いだから、もうやめて……!
私は、ソウスケさえいればいい!
それ以外に何も望まないの!
だから、私からソウスケを奪わないで!
「あ……」
ソウスケは、いた――。
「ソウ、スケ……」
これ、嘘じゃないよね――?
「ソウスケ、ソウスケなの……?」
やっぱり、来てくれたんだ――。
「他に誰に見える?」
「ソウスケっ!」
「ごめん、なんだかずいぶん心配させちゃったみたいだね」
「心配した!いなくなっちゃったのかと思って!怖くて怖くて、死んじゃいそうだった!」
「ごめんごめん。ちょっとね、リカの言ってたこと、考えてて」
「私の……?」
「そう。リカの心を理解するために、僕なりにいろいろやってたんだ。来るのが遅れちゃって、ごめん」
「な、なんだ、そうだったの……。あはは、ぜんぜん気づかなくて、一人で不安になっちゃってた。でも、そんなことなら、ぜんぜんいいよ!ううん、むしろすごく嬉しい!」
ソウスケは、やっぱり私のことだけを考えてくれてるんだ。
そんな当たり前のことに気づかず、私は何をやっていたのだろう。
でもよかった。ソウスケがいて。本当に、よかった――。
「でも、ソウスケ。もういなくなっちゃヤダよ?もうずっと離さない。ずっと一緒にいる。何かするのなら、私も一緒にする」
「わかった、そうするよ。じゃあ、まずは一緒に帰ろうか」
「うん!」
○ ○ ○
「ソウスケ、ここが私の家だよ」
ドキドキする。
ワクワクする。
今まで、自分の家に人を招いたことなんてなかった。
ソウスケが、最初の人。
そしてもちろん、最後の人。
「はは。ちょっと緊張するな。それじゃおじゃまします……」
「うん、どーぞ!」
緊張することなんてないのに。
ソウスケと私は、一心同体。
私の家は、ソウスケの家なのだから。
でも、ソウスケのそういうところ、とても可愛い。
「こっちこっち!私のお部屋、二階だから!」
…………。
…………なんだろう。
……音が聞こえる。
とてもとてもとても私の嫌いな音。
でも、そんなこと、もう関係ないんだ。
ここは私とソウスケとの二人だけの世界なのだから。
「ソウスケ、早く~」
「ごめんごめん、今行くよ」
……音がさっきよりうるさくなった気がする。
私の嫌いな音。
世界で一番嫌いな音。
「ソウスケ、ここが私のお部屋だよ。早く入ろ?」
うるさいうるさいうるさい……。
私たち二人だけの世界を邪魔しないで……!
「キャアッ!」
痛い!
壁に頭と背中がぶつかった。
「リカ、大丈夫?」
「う、うん。ありがとソウスケ」
何……?
私たちの邪魔をするのは何……?
「ヤメテ……」
そんなもの、許さない。
「ソウスケヲ奪ワナイデ……!」
ソウスケ以外のものなんて、なくなっちゃえばいい。
「私タチノ、邪魔シナイデ!!!」
ここは、私とソウスケの二人だけの世界なのだから。
……………………
……気がつくと、静かになっていた。
左手に持ったナイフ。
黒を基調とした制服。
木目の床。
階段の最上段。
部屋の扉。
横たわる何か。
そのすべてが、赤く赤く染まっている。
世界はまたひとつ、狭くなった。
よかった……。
もう音は聞こえない。
私たちの世界は、綺麗になったんだ。
「ソウスケ、私、守ったよ。二人だけの世界、心の世界を」
「うん。見てたよ、リカ。ありがとう。リカは頼もしいね」
ソウスケに褒められちゃった。
とても嬉しい。
心が満たされてゆく。
「ソウスケ、お部屋に案内するね!」
○ ○ ○
辺りが暗く黒く染まる、その時刻。
ソウスケと一緒だから何も怖くない。
今日が終わってしまうのはとても残念。
けれど、そろそろ寝なきゃ。
でもその前に。
「ソウスケ、私、寝る前に日記書くね」
この素晴らしい日は、日記に記しておかないと。
「わかった。じゃあ僕はぬいぐるみとでも遊んでるよ」
やっぱり、私の好きなものはソウスケも好きなんだ。
それがとても嬉しい。
『今日も素敵な一日だった。
ソウスケはやっぱり優しくて、私はやっぱりソウスケが大好き。
今日のソウスケは、』
「あれ、リカ。ベッドの上、エルがいないみたいだけど」
「あ、うん。エルなら、ここだよ」
と言って私はバッグの中を開ける。
エルを取り出して、ソウスケに渡す。
「かばんの中に持ち歩いてたんだ」
「うん。学校に行くとき、少し不安だったから」
「そっか。リカらしいね。……はじめまして、エル」
そう言ってソウスケはエルを受け取る。
やっぱり、ソウスケのお気に入りもエルなんだ。
当たり前だけれど、それでも嬉しい。
『……お風呂では、私に付いていた血を、ソウスケは一生懸命洗ってくれた。
きっとソウスケも、私たち以外の血が嫌だったんだね。
そんな優しいソウスケ、大好き。
好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き大好き。
いくら書いても、文字じゃ表せない。
ソウスケソウスケソウスケソウスケ。
ソウスケソウスケソウスケソウスケ。
ずっと一緒だよ』
これで今日の日記は終わり。
「ソウスケ、エルとは仲良くなれた?」
「なれたよ。エル、リカにそっくりだね。リカは、日記は終わったの?」
「うん、終わった。私もそっちに行くね」
ソウスケとベッドで向かい合う。
周りにはぬいぐるみ。
枕もとにはエル。
こんなに、こんなに落ち着く場所なんて他にない。
幸せの場所。
理想の場所。
永遠の場所。
心の心は心で満たされる。
これが、私の望みの世界なんだ。
ここだけ切り取って、ひとつの世界にしよう。
閉じられた、限りのない、二人だけの世界。
あるのはただ、心の幸せ。
それがそれでそれのすべて。
「ねぇソウスケ……」
「なんだい?」
「ここ、幸せだね」
「そうだなぁ……少なくとも不幸はないね」
「不幸は、外の世界だけのものだよ」
「外は広いし、なんでもあるからね」
「ソウスケ」
「うん?」
「夢の中でも、会おうね」
○ ○ ○
「ソウスケ、朝だよ。遅刻しちゃうよ」
好きな人を起こす――。
ただそれだけの行為が、こんなに楽しいものだったなんて!
私の知らない楽しいこと、嬉しいこと、幸せなこと、きっとたくさんあるんだ。
これから、ソウスケと二人で一つ一つ積み重ねていこう。
「ん……おはよう、リカ……」
「おはようソウスケ。一緒に学校行こ?」
「ん、……もう、こんな時間か」
「ソウスケ」
「うん?」
「大好きだよ。ずっとずっとずっと永遠にいつまでもあなたのことが好き」
「……どうしたの、急に?」
「んふふ、なんでもない」
いくら言っても伝えきれない、この気持ち。
私の心を切り取って、それをソウスケに見せてあげたい。
そうすれば、きっとぜんぶ伝わる。
「ソウスケ、朝ごはん作ったんだよ。リビングにあるから、食べて!」
もう、この家は自由に使える。
好きな人に朝ごはんを作ることも。
好きな時間にお風呂に入ることも。
好きな人と、一緒に暮らすことも。
そのすべてが自由。
もうここは、私とソウスケの家なのだから――。
「これ、おいしいよ。リカは料理も上手なんだね」
褒められた。
褒められた。褒められた。
私の作った卵焼きを食べて、おいしいって言ってくれる。
心がゾクゾクする。力が抜ける。気持ちが高ぶる。
「そ、それじゃ、こっちのお吸い物はどう……?」
ソウスケがお吸い物をすする。この味、ソウスケにちゃんと合ってるかな……合ってるよね。合ってないわけない。
「うん、すごくおいしいよ。こういうの僕好きだな」
「よかった!」
やっぱり、私の好きなものとソウスケの好きなものはぜんぶ一緒なんだ。
今日作ったのは、どれも私の好きな食べ物。
卵焼きは甘口で、お吸い物は少ししょっぱくしてある。
特に卵焼きは思ったよりも上手くできて、自分でもおいしい。
「じゃあ、私片付けてるから、ソウスケは出る準備してて!」
「わかった。それじゃ玄関で待ってるよ」
好きな人と暮らすのって、すごく楽しいな。
これからは、こんな生活がずっと続くんだ。
幸せすぎて、逆に不安になっちゃうくらい。
「あれ?一人分、まるまる余ってる」
あ、そうか。
ソウスケに食べさせるのに夢中で、自分が食べるのを忘れてたんだ。
失敗。
だけど、ソウスケに満足してもらえれば、あとはいらない。
だから捨てる。お腹減ってないし、食べてる時間もないし。
「おまたせー。準備できた?」
「できたよ。それじゃ行こうか」
○ ○ ○
ソウスケと手をつないで、一緒に登校する。
手をつなぐのはとても好き。
手のひらから直接、相手の暖かさが流れ込んでくるようで、心のつながりがより強くなる。
ソウスケこそが、私のすべて――
それを確かめるように、ギュッと握る。
「ソウスケ、綺麗な曇り空だね」
「そうだね、いつ雨が降り出してもおかしくないな」
「そうなったら、相合傘しよう?」
「わかった。約束するよ」
えへへ。早く雨降らないかな。学校に着くまでに降って欲しいな。
「ねぇソウスケ、学校に着いたら、すぐに屋上に行こう?」
「うーん、それじゃ学校に行く意味がないんじゃないかな。授業を受けないと……」
「でもソウスケと一緒にいたい。離れたくない。一緒じゃなきゃ嫌」
「大丈夫だよ。心は、二人だけの世界にあるんだろう?」
「あ……そう、そうだよね。ごめんね、なんだか不安になって。心はずっとつながってるから、大丈夫だよね。ソウスケの言うとおりにする」
「うん。いい子だ」
えへへ、嬉しいな。やっぱりソウスケもちゃんとわかってるんだ。
ソウスケも、私だけしか見ていない――。
私も、ソウスケだけしか見ていない――。
完全な、二人だけの世界――。
よかった、これなら安心。
――ソウスケの教室の前まで来る。
「じゃあ、昼休みに、屋上で」
「うん……」
これからしばらく、一人にならなくちゃいけない。
でも心はつながっているのだから、大丈夫……。
ソウスケは教室に入っていった。
あたりが急に暗くなる。
私の教室は、こっちだっけ……?
静かで無機質な廊下を進む。
自分の教室に入り、自分の机に着く。
ちょうど、授業が始まったみたい。
ソウスケも、今頃授業を受けているのかな……。
でも大丈夫、心の世界では二人きりなんだから、平気なんだ。
平気なんだ……平気なんだ……平気なんだ……。
そうだ、心の世界でソウスケとお話をしよう。
ソウスケと私の心はつながっているから、私が描くソウスケの言葉は、そのままソウスケの言葉のはずなんだ。
授業中は喋っちゃいけないので、ノートでお話しする。
『ソウスケ、私学校って嫌い』
『どうして?』
『だって、ソウスケと一緒にいられないもの』
『しかたないよ。僕も授業は退屈だ』
『前は嫌なことがないから好きだったけれど、今はいいことがないから嫌い』
『昼休みになれば会えるよ。一緒にお弁当を食べて、一緒に帰ろう』
『うん!お昼休みが楽しみ!私ね、お昼休みになったらソウスケとしたいことがあるんだ』
『したいこと?それはなんだい?』
『えへへ、それはまだ秘密』
『秘密かぁ。気になるな』
『とっても素敵なことだよ。私とソウスケが、より深く結ばれるために、必要なことなの』
『それは楽しみだね』
『うん!私も楽しみ』
私の心と同じように、ノートがソウスケで満たされてゆく。
ソウスケとお話していると、嫌な気持ちなんてすぐになくなっちゃう。
今はもう、お昼休みが楽しみ。
ソウスケは、私のお願いを受けてくれるかな――。
ううん、受けてくれるに決まってる。
ソウスケも、それを望んでいるはずだから――。
ドキドキが止まらないよ、ソウスケ。
――授業が終わって、お昼休みになった。
一目散に、屋上を目指す。
少し重いドアを開けると――ソウスケはもうそこにいた。
ちょうど、私達が出会ったところのあたりに立っている。
やっぱりソウスケはちゃんとわかってる。
「おまたせ、ソウスケ――やっと会えたね」
「そうだね、授業は退屈だったよ」
あぁ――ソウスケと一緒にいるだけで、心が満たされる――。
「それでリカ、したいことってなんだい?」
「う、うん。あのね――」
ドキドキする。
少し恥ずかしくて、自然とうつむいてしまう。
でも、これは私とソウスケに絶対必要なこと――。
これをもって、私達の世界は完成するのだから――。
「私と――キス――して欲しい」
ソウスケの返事は――。
「キスね……いいのかい?」
「うん、ソウスケと――したい。ソウスケとじゃないと――嫌」
「わかった。……本当にいいんだね?」
「うん――」
「それじゃ、目をつぶって――」
ギュッと目をつぶる。
顔を少し上に向ける。
いく来るのかな……まだかな……。
その時間は永遠にも感じられる――。
○ ○ ○
そのとき、一輪の風が吹いた――。
凍える風は私の心を突き抜け、通る道を寒々と冷やしていく。
それはまるで意思を持つかのように、私の目を開かせる。
あれ、おかしいな……。
おかしいな……。
また、ソウスケのいたずらかな。
ふふ、ソウスケってばいたずら好きなんだから。
ね……?
ソウスケ。ソウスケ。
ソウスケ……?
………………。
そんなわけないよね……?
うん。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
そんなわけない。
嘘だよ。嘘。嘘。
嘘だよ。
嘘だよね?嘘。
嘘だ嘘だ。
嘘。嘘。嘘だよ嘘だよ?
嘘だよ……?嘘、嘘、嘘、嘘、嘘…………。
…………。
あ、あはは……。
あはははははっ……。
あはははははは!!!
そっか。
そっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっかそっか。
。
気づいちゃった。
うん。
気づいちゃった。
そうだよね。うん。そうだよね。私、気づいちゃったんだ。
ここはね、二人だけの世界じゃないんだ。
ここはね。
ここは…………
――私だけの世界――
………………………………なんだ。
――気がつくと、私はフェンスの頂上あたりまで登っていた。
私は行かなくちゃいけない。フェンスの外側の世界へ――。
フェンスの上に立つ。
吹き続く風がすがすがしい。
私をそちらの世界へ歓迎してくれているかのよう。
ああ!前はこの景色を怖がっていただなんて、嘘みたい!
こんなに綺麗で、愛おしくて、美しい景色なのに!
心がドキドキして、飛び跳ねるよう!
こんなに心の底からわくわくする気持ち、久しぶり。
ううん、初めてかもしれない。
でも無理もない。
やっと私は答えを見つけたのだから。
やっと私はソウスケを見つけたのだから。
足場に降りるのももどかしく、私は死の世界の入り口に向かって飛び降りる。
そう、最初からこうすればよかったんだ。
なんで私はわざわざ生きていようとしたんだろう?
私の心はもうすでに、ソウスケとの二人だけの世界にあるというのに。
体を持っている意味なんてなかったんだ。
ううん、むしろ悪いことだったんだ。
でもこれで、ようやくソウスケとひとつになれる。
それは永遠の幸せ。
これできっと、ソウスケと二人だけの限りない世界へ行けるんだ。
今行くからね、ソウスケ。
「――ソウスケ、ずっと一緒だよ――」
◆ ◆ ◆
上を見上げる――。
空は晴れわたり、鳥はさえずり、風は無邪気に笑いあう。
静かな空気と太陽のあくびが心地よい眠気を誘う。
視線を下げると――。
遠くにグラウンドが目に入る。さらに視線を下に向ければ、プールや花壇、自転車置き場の屋根などがひっそりと佇んでいる。
僕は今、屋上の端っこに立っている。緑のフェンスの外側の、リカと初めて会ったとき彼女が立っていた場所だ。思っていたよりも足場は狭く、長い間落ちずに立ってられたリカはなかなかすごいかもしれない。
さて、ここに来てみたはいいけど、僕はリカの気持ちを理解できたのだろうか。たぶん、できていないのだろう。生きることをやめるために、ここから飛び降りたい、という意味はもちろん理解できる。でも、リカが僕に望んでいることはきっと違う。もっと深い理解を――共感をリカは望んでいる。
だから僕はまだリカの気持ちを「わかって」ない。リカの二人だけの世界へ行くには、これでは不十分だ。どうしたら、その世界へ行けるのだろう。どうしたら、その気持ちをわかるのだろう。どうしたら、その領域にまでたどり着けるのだろう。
――飛び降りてみれば、わかるかもしれない。僕はここに立っているだけで、リカのように飛び降りたいという思いはない。そこがぜんぜん違う。リカのように言えば、リカは、心は飛び降りていたのだ。
ということで、飛び降りてみた。急に不安定な感覚に包まれ、すごい勢いで落下する。空気抵抗が激しく、重力ってこんなに強かったんだと思わされる。足が上に引っ張られ、自然と頭が先になる。
でも、やっぱり僕の心は飛び降りていない。これではリカの気――
――――
――